社会福祉法人 キリスト教児童福祉会 聖母愛児園(児童養護施設)

沿革

沿革

聖母愛児園の始まりは、一般病院(中区山手町82)の玄関先に子どもが放置されていた昭和21年4月です。その後、駅や道路に置き去りにされている乳児を警察がシスター達のところへ連れてくるようになり、聖母病院からも同じような乳児が届けられました。シスター達は、一般病院(中区山手町82)内で、子どもたちの養育を始めました。
昭和20年代30年代は、ドイツ・カナダ・ハンガリア・ポーランド・イングランド等のシスター達も活躍していました。
昭和21年8月までに、子どもたちを22名預かり、翌年8月までには136名受け入れるなど、献身的に働きました。昭和20年代は戦後の混乱期であり、生後間もない子どもたちが放置されており、その上、発疹チフス、痘そう・コレラ等の伝染病が蔓延していました。預かっても疾病や栄養失調等で死亡に至るケースが多く、献身的に働く職員たちの心中は、穏やかではなかったことでしょう。
また、昭和25年から昭和35年までは、アメリカのご家庭との養子縁組があり250組程の縁組みが成立していました。
以下、沿革の概略を記します。
昭和4(1929)年3月27日
財団法人大和奉仕会 法人成立
昭和10(1935)年
1867年に欧米人によって設立された横浜一般病院の院内管理と看護部門の責務を引き受けた。(聖母会前身大和奉仕会)
昭和21(1946)年4月
終戦後の混乱の中、病院の玄関先に子どもが置き捨てられていた。横浜市中区山手町82番地、横浜一般病院の一角を利用して、収容、保護に当たったのが始まりとなった。
創立年月日:
昭和21(1946)年5月31日 ルルドのマリア様のご保護の許におく。
創立理由 :
駅や道路に捨ててある乳児を警察がシスターのところへ連れてくるようになった。又、聖母病院からも同じような乳児が届けられる。シスター達は一般病院内で世話を始めたが、2歳まで預かり、その後カトリックの施設(サレジオ会やパウロ会)に移すつもりであった。
昭和21(1946)年8月15日
5月から22名預かり、12名は他のカトリック施設に移る。
現在10名在籍
昭和21(1946)年9月
神奈川県当局の支援により、横浜市中区山手町68番地に乳児院を新設、名称を聖母愛児園として独立。初代園長は、大和奉仕会々員ルゼンヌ・アンナ・マリーが就任。
昭和22(1947)年8月15日
この1年間に136名受け入れる。40名死亡、17名は他の施設に移る。
現在79名在籍
昭和23(1948)年8月15日
この1年間に243名受け入れる。50名死亡、32名は本会の他の施設に移る。
現在161名在籍
昭和24(1949)年8月15日
この1年間に233名受け入れる。17名死亡、51名は他の施設に移る。
現在165名在籍
昭和25(1950)年4月
収容児の成長、増加に伴い、養護施設の認可を受ける。
昭和25(1950)年8月15日
この1年間に215名受け入れる。8名死亡、10名北広島の本会の施設に移り32名は他の施設または養子として引き取られる。
現在165名在籍(3歳以下120名、3歳以上45名)
昭和26(1951)年8月15日
この1年間に235名受け入れる。7名死亡、22名カトリックの家庭に引き取られる。
現在206名在籍(3歳以下151名、3歳以上55名)
昭和27(1952)年8月15日
この1年間に185名受け入れる。2名死亡、31名アメリカのカトリックの家庭に引き取られる。
現在152名在籍
昭和28(1953)年
財団法人大和奉仕会が社会福祉法人聖母会に組織変更認可
昭和28(1953)年8月15日
この1年間に171名受け入れる。2名死亡、33名アメリカの家庭に引き取られる。
現在136名在籍
昭和29(1954)年8月15日
この1年間に195名受け入れる。2名死亡、42名アメリカの家庭に引き取られる。
14名家族の許に帰る。
現在137名在籍
昭和30(1955)年8月15日
この1年間233名受け入れる。55名カトリック家庭へ引き取られ、41名は少年の町(Boys Town)へ受け入れられ、19名は母親の許へ帰る。2名死亡
現在116名在籍
昭和31(1956)年8月15日
この1年間に196名受け入れる。2名死亡、49名アメリカの家庭に引き取られる。
28名母親の許へ帰る。
現在117名在籍
Baby-Home(現聖母愛児園)と修道院の建築着工。
鉄筋コンクリート、地下1階地上3階建築
地下:厨房、洗濯場アイロン室、乾燥室、倉庫
1階:乳幼児室、応接室、事務所
2階:3歳から10歳までの女子の子供室
3階:修道院
建築費用:47,054,440円
昭和32(1957)年3月
建築竣工
昭和32(1957)年8月15日
現在120名在籍。アメリカに引き取られた子どもの数は不明
*アメリカへの養子縁組は昭和35年まで続いた。
昭和40年8月
鉄筋コンクリート3階建て、幼児棟、職員宿舎増築着工。
昭和41年5月
建築竣工
昭和45年10月
災害に備えて、避難階段、すべり台、バルコニーを増設、窓サッシの一部改修、厨房工事、職員倉庫の新築。
昭和49年3月
学童風呂場改修工事着工。49年7月完成。
昭和52年3月
幼児減少のため、乳児院閉鎖。改築工事を行い、旧館3階を職員宿舎に新館2階を児童棟にする。
昭和62年
外壁塗装及び大型乾燥機交換
平成 8年
耐震診断実施、耐震補強より建て直しが最善との結果
平成13年
分園型自活訓練事業開始(本郷ホーム定員6名)
平成14年10月
分園型自活訓練事業から転換し、地域小規模児童養護施設認可
平成15年
児童棟を一部改装。14名1グループにし、グループ毎に食堂を整え居室も大部屋から2~3人部屋とした。
平成17年10月
聖母会からキリスト教児童福祉会へ法人移管
平成19年11月
改築工事着工
鉄筋コンクリート造合金メッキ鋼板ぶき3階建て 児童養護施設
鉄筋コンクリート造合金メッキ鋼板ぶき3階建て 児童養護施設
鉄筋コンクリート造陸屋根4階建て 児童養護施設
鉄筋コンクリート造合金メッキ鋼板ぶき3階建て 職員宿舎
延べ床面積 3,769.46㎡
居室数と居室形態 5LDK=12ホーム、低年齢児ホーム
1人部屋(洋室6畳程度*全居室数の6割)、2人部屋(和室6畳程度)
敷地面積 5,240.98㎡(1,588坪)
平成22年8月6日
改築工事竣工
平成22年9月1日
本園定員70名から90名へ
平成23年10月1日
児童家庭支援センター みなと開所


ファチマの聖母、少年の町(通称:ボーイズタウン)
(聖母愛児園分園拡張施設)

昭和30年3月時の文章

古語にも十年一昔と言われて居りますが、大東亜戦争の終末から早くも十年の月日が流れ、戦争の思ひ出を忘れかけて参りました中に、終戦以来数々の問題を残して居ります混血児の事は、彼らの成育と共に社会問題として私共の中に投げかけられて来て居ります。
横浜という特殊な土地柄の為、殊更此の風にあてられて参りました者の一人は、私共「聖母愛児園」でございます。終戦の翌年、昭和二十一年の四月の或朝、中区山手町八二番地の横浜一般病院の玄関先へ置棄てられて居りました子供が最初の者でございます。(横浜一般病院は、昭和十年より二十六年まで現在の社会福祉法人聖母会の前身なる社団法人大和奉仕会の経営に依る。)苦しい生活の中に又は、すさんだ心の中に求められて参りました楽しみとしての進駐軍との交際はこのやうに次々と罪なき子の誕生をみ、世間を恥じて親子の名乗りさえあげかねる彼等の母親は、せめて神の慈悲の御手に我が子を託せんものと、修道院の玄関先へ秘かにおいていったのでございませう。私共では早速に一般病院の一角を利用して乳児院を開設し、之等薄幸の子等に愛の手を差しのべたのでございます。然し子供達は日毎に増加をみる一方で、一般病院の一隅のみでは到底収容しかねて参りましたので、昭和二十一年九月神奈川県当局の絶大なる御支持の下に山手町六八番地に乳児院を独立新設し「聖母愛児園」と命名致しました。其の後子供達は天守様の恩寵の下、修道女の手によって健かに成育し、昭和二十五年には満四才に達する者も出て参りました。ここに於いて乳児院で引きつづき収容致すことも出来ませんので乳児院の隣接地へ養護施設を新設し乳児院の年齢超過児を収容保護致して参りました。昭和二十八年子供達が学齢に達しますと共に、新たな問題がおきて参ったのでございます。幸ひにも小学校の先生方のご理解ある御協力により就学致すことが出来ました。然し女児はともかく男児の教育が切実な問題として考慮されて参りました。私共愛児園と致しましては早速に教区長荒井司教様の下に伺ひこのことにつき御相談申し上げたのでございます。荒井司教様もすて難い問題として御取上げ下さいまして日本の各司教様教区長様方を通じて教会の協力を求められます一方米駐留軍の方々によびかけられ援助を求められたのでございます。とかくする中、司教様よりこの事について御聞き遊されまして教皇様は五萬弗の資金を混血児救済事業のため御寄付下さいました。其の後間もなく横浜のカトリックの方々より九千弗の御寄付をいただきこの五萬九千弗をもって南林間に八千坪の土地を購入し三四六坪(収容四十五名)の建物の建築に取りかかる準備をなしかくて問題解決の第一歩をふみ出したのでございます。昭和二十九年八月定礎式を行ひ同年十月二十三日棟上式を挙行、こえて三十年三月十二日落成式をみるに至りました。
今後女児の混血児は引続き聖母愛児園で保護されて参りますが男児は高座郡大和町下鶴間の愛児園の拡張施設で保護されることになり此の子供達の教育にはカナダより来日致して居ります「教育修士会」の方々があたられ、なほ東京の「おつげのフランシスコ修道会」がこれに協力されることになり「ファチマの聖母少年の町」とよばれることになりました。此移転につき度々問題になりましたのは子供達の学校のことでございます。折角なれました所を日浅くして変わりますことは種々の面で影響がありますことを考慮されましたので大和町の小学校の御理解を得まして現在通学致して居ります元街小学校へ引きつづき通うことに決定致しました。
今日まで私共で扱いました混血児の数は男児二〇〇名女児一九〇総計三九〇名でその中昭和二十一年より二十九年三月までに養子として家庭へもらわれましたのが男児四七名女児四七名合計九四名、二十九年より現在までの間に養子となりましたものが男児一五名女児二十四名合計三十九名で私共も国の保護を頼ると共に極力理解ある家庭への養子を努力致して居ります。
内外多数の方々の御協力により少年の町の第一歩はふみ出されました。然し数多くの問題はなほ将来に残されているのでございます。物質的に精神的に皆様の御協力を得てこそよき国民の一人として生ひたって行くのではございませんでせうか。ここに今日までの数々の御協力を感謝致しますと共にあわせて今後の御支援を心から願ひ天守様の豊かな祝福を皆様の上に祈りつつ、少年の町設立に至りました経過を御報告申し上げます。


少年の町の混血児

この施設が出来たのは、横浜の当時の新井司教さんが横浜の「聖母愛児園」の依頼で、根岸台にあった修道会に依頼してできたものだった。依頼されたのは学齢期、学校に通わなければならなくなった混血男児のための施設ということだった。この依頼は1953年昭和28年、当時子供たちは7歳だから、生まれたのは昭和21年、妊娠したのが昭和20年の終戦の年という事になる。第1回目に入ってきたのが34名、全員混血児だった。(別情報では、黒人系21人、白人系5人、韓国人系1人、日本人の孤児12人であった)。
ところが、学童期の子供が入ってきたというのに、大和市の地元の住民や学校の反対で、入学が出来ず、毎日大和から横浜の小学校へスクールバスで通うということが5年間も続いた。教育委員会も反対した。何故かというと、混血児だったからだ。「冗談じゃない、そんなものを建てたら黒人の町になるぞ」と言われ、小学校のPTAの90%が反対の署名をしたほどであった。
はじめは、その施設の建築自体が反対されていたが、学校に通わないということで建物だけの建築が許された。そして、子供たちは、横田基地のクリスマス会に招待されたり(私も招待されて子供たちを連れて行った経験がある)、厚木基地に食事や映画の招待を受けるという生活をした。
「思い出:笠原のぶ子(ボランティア)クリスマスや御復活祭になりますと、たくさんの兵隊さんが来て子供たちをお食事に招待してくれます。・・・・外人の家族が来た時レオが言いました『お姉ちゃん、僕たちにもお父さんやお母さんがいたんだよね』・・・戦争の結果とでも言いましょうか、何の罪もない子供たちが生まれながらにして不幸を背負わなければならぬ運命のいたずら、戦争のない世界の平和を祈らずにはいられません」この彼女の文章だけが真実を述べていると思う。
「白人や、黒人との混血児の収容施設が大和町の林の中に建てられる。・・・・それは昭和21年の秋、横浜の女子修道院の玄関に混血の赤ちゃんが捨てられていたことがきっかけであった。・・・・終戦後まもなく「戦争の落とし児」と呼ばれる子供が年々増加していくために困っていた、・・・・創立当時30数名が入所したが、すでにその時112名はアメリカ人の家庭に養子に行き、13名は日本人に引き取られていた。・・・・・施設に入った子供たちの衣食住の世話は、「お告げの姉妹会修道女」が担当している」。

アメリカ人兵士と日本人女性との間に生まれ、学齢期に達した混血の孤児(男児)を収容するため、横浜市中区山手町にあった聖母愛児園の分園として昭和30(1955)年、南林間(現在の南林間小学校・同中学校付近)の約8千坪(2万6,400㎡)の敷地に建てられました。混血児に対する偏見が強かった時代、最盛期には60人ほどの子供たちがここで集団生活を送り、巣立っていきました。当初、子供たちはバスで山手町の元街小学校へ通学していましたが、交通量の増加などでバス通学が困難になったため、交渉の末、昭和35(1960)年から林間小学校へ通学しました。その後、在園者・入園者の減少や社会状況の変化などによりその役割を終え、昭和46(1971)年3月に少年の町としての一切の業務を終了しました。土地(2万2,400㎡)と建物は市に売却され、社会福祉施設「松風園」として開園しました。

横浜一般病院沿革

1867年(慶応3年)
「THE YOKOHAMA GENERAL HOSPITAL」を欧米人を中核とする委員会によって、横浜市中区山手町に設立。
1942年(昭和17年)
6月
5日 GENERAL Hは敵産管理法施行令第3条第4項に基づき大蔵大臣より敵産に指定された。(敵産管理人三菱信託株式会社)
1943年(昭和18年)
6月
GENERAL H(以下横浜一般病院と記載)病院委員会は1月21日の会議で改組に関する日本帝国政府の計画に原則的に同意したと、日本側(外務省)に通報した。新しく構成された委員会の委員は日本人6名、外国人4名
9月
15日 財団法人横浜一般病院設立に関し、厚生大臣宛申請書提出
1944年(昭和19年)
1月
20日 「財団法人 横浜一般病院」設立認可、大蔵省は敵産として接収した国有財産たる病院財産を本財団法人に無償譲渡、2月22日登記
3月
山手地区外人立ち入り禁止海軍の要請により病院を横須賀海軍病院に賃貸、代わりに横浜関内にある関東病院を買収、移転(3月23日)。診療科は内科、外科、産婦人科、X線科、開業準備期間をおいて診療開始は7月1日
1945年(昭和20年)
5月
29日 横浜大空襲病院周辺は焼夷弾攻撃により、見渡す限り焦土と化したが病院は職員の奮闘により、一部の病室を除き焼失をまぬかれた。わずかに残った建物はニューグランドホテル、横浜正金銀行、県庁、横浜一般病院ぐらいであった。
8月
15日 太平洋戦争終了、28日連合軍進駐、30日マッカーサーホテルニューグランド入り横浜一般病院山手病舎(分院)は進駐軍に接収され、病院は欧米人の運営に復帰。
1946年(昭和21年)
7月
1日 山手地区の病院は寄付行為変更、THE YOKOHAMA GENERAL HOSPITALと元通りの名称に戻る。なおこの病院は昭和25年(1950)The Bluff Hospitalと改称した。

聖母愛児園の譲渡に至る経緯

1.歴史概略
平成12年(2000)に、社会福祉法人 聖母会より、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会へ、児童養護施設 聖母愛児園の土地及び運営を移管したいとの申し出があり、その準備のため、当時、キリスト教児童福祉会理事長の森が、聖母愛児園施設長に就任することとなりました。
聖母会の母体、マリアの宣教者フランシスコ修道会の日本で最初の拠点が熊本県であり、ライ患者の施設である待労院や児童養護施設 琵琶崎聖母愛児園(1978年閉鎖)等を運営。横浜では、昭和21年(1946)に戦災孤児や混血児のためのベビーホームを開設、昭和25年(1950)に、乳児院を増員し名称を聖母愛児園とし児童養護施設としても認可を受け現在に至っています。修道女による運営のため、女子児童の措置が中心でありました。
上述した経緯の中、時代のニーズは、女子児童だけではなく、男子児童の措置受け入れの要請があり、また、施設老朽化整備等、様々な要因が重なり、社会福祉法人 聖母会は、歴史的にも親交のあった、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会に、土地及び運営を移管する決定に至っています。
歴史的親交を決定づける事件が龍田寮児童通学拒否事件(黒髪事件)です。

2.聖母愛児園の譲渡に伴う基本財産処分への概略
平成12年(2000) 社会福祉法人 聖母会の風間理事長が、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会へ来訪、聖母愛児園の継承について打診、検討の結果、適切な継承相手であると判断し準備を進める。
平成12年(2000) 社会福祉法人キリスト教児童福祉会理事会にて、聖母愛児園の譲渡について説明、理事長が聖母愛児園施設長に就任する件についての説明、共に承認を得る。
平成13年(2001) キリスト教児童福祉会理事長の森が、理事長を降板し、聖母愛児園施設長に就任する。
*聖母愛児園の土地が、聖母会運営の他施設建築時の担保になっているため、担保期限が終了するまで保留状態となる。
平成15年(2003) 社会福祉法人聖母会理事会にて聖母愛児園の譲渡に伴う基本財産処分について説明し承認を得る
平成17年(2005) 1月 社会福祉法人聖母会理事会にて聖母愛児園の譲渡に伴う基本財産処分について承認可決
3月 贈与契約書締結 キリスト教児童福祉会 趣意書を提出
平成17年(2005) 3月 社会福祉法人キリスト教児童福祉会理事会にて、聖母愛児園の譲渡に伴った、贈与契約書締結、趣意書提出について異議無く承認

3.聖母会が聖母愛児園を譲渡する理由(理事会議事録より)
・聖母会の児童養護施設園長は後援団体の修道会会員が担ってきたが会員の減少、高齢化に伴い幼児・学童の教育に携わる人材不足となり、北広島の天使の園と横浜の聖母愛児園の2カ所も児童養護施設の経営管理を継続することは不可能であること。
・大都市圏では児童養護施設への入所へのニーズが高く横浜市の要請する男子の受け入れその他、時代のニーズに応えることが不可能であること。
・種々の施設を経営する聖母会としては家庭崩壊・虐待児等が増加している今日、将来のある児童・学童教育に責任をもってあたる専門家がいないこと。

4.社会福祉法人キリスト教児童福祉会を継承先とする理由(理事会議事録より)
・永年、児童養護施設、特に小舎制養護を目指し児童の教育に実績のある「社会福祉法人キリスト教児童福祉会」が継承する意向のあること。
・長年、専門に児童養護施設として救済・教育・施設運営に力を入れて運営してきた社会福祉法人であり、聖母会が土地・建物を無償譲渡することによりキリスト教の精神を維持して聖母愛児園を継承する熱意があること。
・希望退職者を除く職員全員を継承する意向があること。

5.譲渡条件
・希望退職者を除く職員全員を継承する。
・土地・建物は現状のまま無償譲渡し、事業を継承する。
・土地・建物運用財産の明細は省略します

龍田寮児童通学拒否事件(黒髪事件)

龍田寮は、恵楓園に入所中の父母を持つ子どもたちが生活している同園附設の児童福祉施設でした。健康であるにもかかわらず、「未感染児童」といわれ、将来感染するかもしれないという誤解と偏見を受けていました。他の療養所では、問題を抱えながらもすでに小中学校への本学通学は実現していて、残ったのは恵楓園だけという状況で事件は起きました。
龍田寮の敷地内には黒髪小学校の分校があり、昭和28年(1948)12月、恵楓園の宮崎園長が法務局に、子ども達を普通の学校へ通学させないのは差別だと申し立て、新聞で取り上げられると、にわかに黒髪小学校のPTAが騒ぎ始めました。
入学式の日から反対派が同盟休校を強行しました。反対派は,「黒髪会」という住民組織を結成し、龍田寮の廃止を要求するようになってきました。寮の前には反対派の車が来て、拡声器で「でていけ」と怒鳴りました。
昭和30年(1950)には、熊本商大の高橋学長が間に入り、新一年生四人を学長の官舎に引き取り、そこから本校に通わせることを提案し、最終的にはこれが受け入れられました。しかし、龍田寮は昭和32年(1952)いっぱいで閉鎖と決定されました。子どもたちは、故潮谷総一郎・慈愛園園長のとりまとめで、県内の児童養護施設に極秘のうちに分散収容されました。しかし、「できるだけ患者の出身地で処理させる」との恵楓園の方針で、親せきに引き取られた子の方が多かったといいます。
この時、故潮谷総一郎園長の呼びかけに、真っ先に反応したのが広安愛児園の志垣園長であり、聖母会でした。

キリスト教児童福祉会概略

沿 革

昭和21年 1月 宣教師モード・パウラス女史は、終戦後荒廃した熊本市を彷徨する傷心の子供の数が多いのを見て、早急に収容施設を増設する必要を認めた。
昭和22年 6月 幾多の紆余曲折を経て、旧陸軍演習場用地払い下げの申請が受理され資金を米国リッチモンド市に本部を置くC・C・F(Christian Childrens Fund.Inc) に得て、茫々たる草原2万6千余坪の開墾を始め収容ホーム建設に着手。
昭和23年 4月 旧陸軍の倉庫1棟移築して、収容ホーム第1号を建て、開園。
昭和24年 8月 児童福祉法による「養護施設慈愛村」認可(熊本県知事)
昭和27年 6月 「慈愛村」より「広安愛児園」に改名。
昭和28年12月 「社会福祉法人基督教児童福祉会広安愛児園」認可(厚生大臣)
昭和45年 4月 理事会予算審議建物全面改善計画を立てる。
昭和47年 9月 基督教児童福祉会(米国本部)より広安愛児園への土地・建物の所有権移転登記完了。
平成 2年10月 全面改築工事起工式。
平成 3年 7月 全面改築工事完了。児童新小舎へ引っ越し。
平成13年 4月 情緒障害児短期治療施設こどもL.E.C.センター開設
平成13年 8月 法人名称を社会福祉法人キリスト教児童福祉会へ変更
平成17年10月 社会福祉法人聖母会より児童養護施設聖母愛児園を引き継ぐ
平成19年12月 聖母愛児園改築工事開始。
以上の経過を経て現在に至る。

土地売却計画断念

1.歴史概略
平成13年に、社会福祉法人 聖母会より、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会へ、児童養護施設 聖母愛児園の土地及び運営を移管したいとの申し出がある。
聖母会の母体、マリアの宣教者フランシスコ修道会の日本で最初の拠点が熊本県であり、ライ患者の施設である待労院や児童養護施設 琵琶崎聖母愛児園(1978年閉鎖)等を運営。 横浜では、1946年に戦災孤児や混血児のためのベビーホームを開設、1951年に、乳児院を新設し名称を聖母愛児園とする。1955年に、児童養護施設として認可を受け現在に至っている。修道女による運営のため、女子児童の措置が中心であった。
上述した経緯の中、時代のニーズは、女子児童だけではなく、男子児童の措置受け入れの要請があり、また、施設老朽化整備等、様々な要因が重なり、社会福祉法人 聖母会は、歴史的にも親交のあった、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会に、土地及び運営を移管する決定に至っている。
2.土地売却計画
平成13年に聖母会より移管の申し出があった後、最初に取り組んだのは、土地の売却であった。売却益により新たな土地で建物を新設する計画である。新たな土地の候補地として挙がったのは、寿町1丁目(裁判所裏手)の国有地であった、児童家庭課係長も同行の上、交渉にあたったが、財務局よる国有地払い下げ条件の中に、購入者は、20年間、名義を変更してはならない。があり、当時、移管前で、まだ、聖母会であったため、購入を断念せざるを得ない状況であった。
さて、一般企業等は、景観条例の遵守や道路狭小による交通アクセスの不便さ等々、様々な要因が絡み、候補者は現れない状況であり、隣接した、雙葉学園や近隣の中華学校との交渉を行ったが、金額的に折り合いがつかず交渉は、不成立に終わった。
児童家庭課の協力を得ながらの売却と購入のプロジェクトであったが、これ以上の進展は、望めず、施設老朽化整備のための建て替えは、現在の山手町68番地にて行い、工事中は、仮園舎にて子どもたちの養護を守る方向へと計画を変更する。


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