Q1. 戦後当時、子どもたちは、どのように置き去りにされていましたか?母の職業などの記録はありますか?

A.
<置き去りにされた状況>
 「電柱に縛り付けられて捨てられていた」は、衝撃的ですが、恐らく発見されやすい目立つところであったのでしょう。「電車の中での出生」「保護した警官宅での出生」など、事実は小説より奇なりですが、「実母や友人の家にこどもを置き逃走」の逃走という表現が、その時の女子を表すわかりやすい表現だったのでしょう。
 「病院」「劇場」「駅構内」「公衆便所」「公園」などでの置き去りですが、共通するのは、発見されやすい場所ということです。また、お医者さん宅の勝手口など、裕福そうな環境でこどもが育てられるだろうとの想いがあったのだろうと推測できます。立派な建物前への置き去りもありました。
<母の職業>
 昭和21(1946)年から昭和23(1948)年頃は、棄児(捨子)が多かったため、親の情報記載は、少ない。
 そんな中、最も多く記載された職業は、「ダンサー」でした。次が、「アメリカ家庭の女中」でした。
 「芸者」や「キャバレー」などの水商売の記載はありますが、「赤線などの娼婦」の記載はなく、恐らく全く情報の無い棄児の中にいるのだろうと推測します。
 「学校の教員」や「看護師」の方もいますが、「貧しき家庭の娘なり」「家庭は極貧」との記載がある一方、「某良家の長女」は、人生の歯車がはずれていったのでしょう。

Q2. 聖母愛児園では、GIベビー(混血孤児)を何名程度受け入れていましたか?

A.
 横浜市ふるさと歴史財団 近現代歴史資料課学芸担当係長の西村健(たける)さんによる調査所見によると、
 資料記載の父の国籍欄情報は、捨子の場合は肌の色などで判別していると考えられるため、正しい国籍を反映しているとは限りませんが、占領軍兵士を現わすと考えられるアメリカ国籍の父から生まれた子どもの数を年別にみると、1946年(昭和21)19名、1947年(昭和22)99名、1948年(昭和23)63名、1949年(昭和24)40名、1950年(昭和25)23名、1951年(昭和26)20名、1952年(昭和27)19名と、1947年(昭和22)をピークとして1950年(昭和25)以降は20名前後が継続して入所していることがわかります。
 敗戦直後から次第に入所児童が減少する要因として、1949年(昭和24)4月号の『食生活』記事、「天使と遊ぶ孤児たち」において、記者に対しアロイジオは女性たちが「妊娠を中断する方法」を学んだために、入所児童が少なくなったという推測を語っています。避妊をしない占領軍兵士の無責任な姿勢や、女性たちが中絶手術を受けられない戦後混乱期の状況が、本資料の数値に現れているといえます。

Q3. 米国に養子に行かれた方より、「自分のルーツを知りたい」との問合せを受けていますが、どのような流れで受けていますか?

A.
ルーツ確認問合せの流れ(2006年より)
電子メール、Facebook メッセージ、電話、手紙などで問合せ

「自分は、聖母愛児園にいたのか?」

相手に連絡(返信メールや電話)

本人確認

本人の知っている情報と実際の情報の一致点により判断

第三者の場合

本人との関係や関わりをインタビュー。その内容の信憑性により判断

確認が取れたら情報開示

外国在住の場合、書類をPDF 化して送信する場合もあります。

来園した場合、原本を閲覧してもらいます。

棄児であったことにより、本人の情報は極めて少ないですが、それでも、自分のルーツを確認できたことで喜ばれます。

Q4. 米国へ養子に行かず、日本で生きてきた場合、生きづらさがあったのでしょうね。

A.
 国際養子縁組ではなく日本で生きてきた男性の視点です。
 幼年期はいろいろあり、確かに大変な時代でした。
 しかし、僕たちは近隣住民に比べれば、恵まれた面もあったかも知りません。大磯のエリザベスサンダスホームとの交流もあり、ある面は楽しい日々もあり、しかしながら確かに学校周辺住民から人種的な言葉は多く見られいやな思いもしました。
 当時、養子にアメリカに行かれた方も多く見られました。
 私も養子に12歳のころ黒人の将校の家庭に行く予定でしたがなぜか、泣きじゃくりシスターが心配して、丁重にお断りしたことを覚えています。もしアメリカに行ったら今の人生が大きく変わったでしょう。
 当時、養子に貰われた子たちは、ベトナム戦争に行かれ亡くなった子もいたり怪我をされた方も多く見られました。時には一時日本に戻り、僕のお母さんはどこにいるのか、探してくれなど、ベビホームとか私を訪ねたり手紙で私宛てにおくられてきたことが多数ありました。
中略
 20年前に実の母が見つかりアメリカに行き何回も母に会い、しかし長い年月たったため、親子のきずなが薄れ、とても悲しい思いをしました。
 当時の子供たちには罪がないのです。親の身勝手な行動で子供たちが悲しい思いをしてしまうだけなのです。それは、今日もどの世代でも変わらず、悲しい出来事がいまだに起き、とても悲しいです。

Q5. 置き去りにされた子どもたちの中には、亡くなった子どもたちも多かったと聞いていますがそれは、事実ですか?

A.
 聖母愛児園の記録に残されているのは、昭和22年53名、昭和23年38名、以後は、一桁台で記録されています。その昭和22年23年では、約80%の児童は1年未満に亡くなっています。その死因は、早産が28%、肺炎21%、先天性梅毒11%、消化不良10%、脳膜炎、結核なども記録されています。埋葬については、法人の納骨堂が72%、近くのお寺が18%、そして、家族の引き取りが8%でした。記録上の子どもたちには、名前が記載されています。
 これらは、記録に残されている数字ですが、記録に残されていない「名も無き子どもたち」が多くいたと推測されています。

天使の園(北海道)への措置変更

日本におけるマリアの宣教者フランシスコ修道会の歴史 1898-1972

407ページ最下段より408ページ8行目まで
 戦災のひどかった横浜や東京では、孤児が増え続けるばかりでした。M.フェリシタデは、米軍キャンプの助けをかりて、横浜と東京で収容しきれなくなった子どもたちを札幌と北広島の施設へ送りました。子どもたちは札幌へ派遣されていく若い誓願者に守られて、米軍キャンプが用意した専用の貨物列車で、無事、札幌に到着し、北広島の施設へ移されました。貨物列車とはいえ、汽車に乗って行くことさえ非常に困難な当時としては、それは「お召し列車」と同じ位、高級なことでした。3回にわたって、子ども専用列車が札幌へ向かったと言われています。

 上述の記載がありますが、記録上は、明らかに3回以上の移動がありました。
 昭和22年から昭和24年は、「米軍キャンプの助けをかりて、横浜と東京で収容しきれなくなった子どもたちを札幌と北広島の施設へ送りました。」の部分だと推察されます。ところが、「3回にわたって、子ども専用列車が札幌へ向かった」との記述とは矛盾が生じています。

横浜の聖母愛児園から北海道の天使の園への移動

 昭和22年 3月15日  2名
 昭和22年 7月16日  5名(内1名は、混血 フィリピン)
 昭和23年 3月26日  7名(内1名は、混血 中国、内1名は、混血 米国 白)
 昭和23年 9月20日  1名(Vivian)(混血 米国 白)
 昭和23年10月10日  5名
 昭和24年 5月31日 10名
 昭和24年11月30日 10名
*殆どの子どもたちは、日本人でした。米軍キャンプは純粋に福祉貢献で移動の協力をしたのであろうか。

北海道から横浜の聖母愛児園への移動

 昭和29年 6月 9日  1名 天使の園(Vivian)(混血 米国 白)

 昭和30年から昭和32年については、米国への養子縁組候補児童を北海道から横浜の聖母愛児園に送りましたが、養子縁組不調などの理由により、北海道へ戻されていったと推察されます。

北海道から横浜の聖母愛児園への移動

 昭和30年 1月30日  1名 天使ベビーホーム(混血 米国 白)
 昭和30年 3月17日  2名 天使の園(2名、混血 米国 白)
 昭和30年11月26日  1名 天使の園(混血 米国 白)*

横浜の聖母愛児園から北海道の天使ベビーホームへの移動

 昭和31年 6月14日  1名(混血 米国 白)

女たちのアンダーグランド 山崎洋子著 147ページ13行から

「横浜からは、たしかにハーフの子が来ました。もちろん、女の子ばかりです。小学校へも一緒に通いました。ビビアン、アネッタ、すみえ…私より、ちょっと年長の子たちでしたね。はなえちゃんという黒人系ハーフの子もいました。ジェニーという子は、どこかへ養子に行ったものの、すぐに戻されてきました。上手くいかなかったのでしょうね。ハーフの子は可愛かったけど、みんなすごく気が強かったから」
 でも全員、いつの間にかいなくなっていた、とNさんは記憶を辿りながら言う。「天使の園」からアメリカへ養子に行った子も、少なからずいたのだろう。

 ビビアン:おそらく「Vivian」と思いますが、分かりにくい記録から察するに、昭和23(1948)年9月から昭和29(1954)年6月の間に天使の園にいたと思われる児童の洗礼名が「Vivian」です。。
 アネッタ:記録上実在を確認。
 すみえ:記録上実在を確認。
 はなえちゃん:該当者不明
 ジェニー:該当者不明

横浜の聖母愛児園から北海道の天使の園への移動

 昭和32年 4月29日  3名(3名、混血 米国 白)