ファチマの聖母、少年の町(通称:ボーイズタウン)
(聖母愛児園分園拡張施設)
昭和30年3月時の文章
古語にも十年一昔と言われて居りますが、大東亜戦争の終末から早くも十年の月日が流れ、戦争の思ひ出を忘れかけて参りました中に、終戦以来数々の問題を残して居ります混血児の事は、彼らの成育と共に社会問題として私共の中に投げかけられて来て居ります。
横浜という特殊な土地柄の為、殊更此の風にあてられて参りました者の一人は、私共「聖母愛児園」でございます。終戦の翌年、昭和二十一年の四月の或朝、中区山手町八二番地の横浜一般病院の玄関先へ置棄てられて居りました子供が最初の者でございます。(横浜一般病院は、昭和十年より二十六年まで現在の社会福祉法人聖母会の前身なる社団法人大和奉仕会の経営に依る。)苦しい生活の中に又は、すさんだ心の中に求められて参りました楽しみとしての進駐軍との交際はこのやうに次々と罪なき子の誕生をみ、世間を恥じて親子の名乗りさえあげかねる彼等の母親は、せめて神の慈悲の御手に我が子を託せんものと、修道院の玄関先へ秘かにおいていったのでございませう。私共では早速に一般病院の一角を利用して乳児院を開設し、之等薄幸の子等に愛の手を差しのべたのでございます。然し子供達は日毎に増加をみる一方で、一般病院の一隅のみでは到底収容しかねて参りましたので、昭和二十一年九月神奈川県当局の絶大なる御支持の下に山手町六八番地に乳児院を独立新設し「聖母愛児園」と命名致しました。其の後子供達は天守様の恩寵の下、修道女の手によって健かに成育し、昭和二十五年には満四才に達する者も出て参りました。ここに於いて乳児院で引きつづき収容致すことも出来ませんので乳児院の隣接地へ養護施設を新設し乳児院の年齢超過児を収容保護致して参りました。昭和二十八年子供達が学齢に達しますと共に、新たな問題がおきて参ったのでございます。幸ひにも小学校の先生方のご理解ある御協力により就学致すことが出来ました。然し女児はともかく男児の教育が切実な問題として考慮されて参りました。私共愛児園と致しましては早速に教区長荒井司教様の下に伺ひこのことにつき御相談申し上げたのでございます。荒井司教様もすて難い問題として御取上げ下さいまして日本の各司教様教区長様方を通じて教会の協力を求められます一方米駐留軍の方々によびかけられ援助を求められたのでございます。とかくする中、司教様よりこの事について御聞き遊されまして教皇様は五萬弗の資金を混血児救済事業のため御寄付下さいました。其の後間もなく横浜のカトリックの方々より九千弗の御寄付をいただきこの五萬九千弗をもって南林間に八千坪の土地を購入し三四六坪(収容四十五名)の建物の建築に取りかかる準備をなしかくて問題解決の第一歩をふみ出したのでございます。昭和二十九年八月定礎式を行ひ同年十月二十三日棟上式を挙行、こえて三十年三月十二日落成式をみるに至りました。
今後女児の混血児は引続き聖母愛児園で保護されて参りますが男児は大和町の愛児園の拡張施設で保護されることになり此の子供達の教育にはカナダより来日致して居ります「教育修士会」の方々があたられ、なほ東京の「おつげのフランシスコ修道会」がこれに協力されることになり「ファチマの聖母少年の町」とよばれることになりました。此移転につき度々問題になりましたのは子供達の学校のことでございます。折角なれました所を日浅くして変わりますことは種々の面で影響がありますことを考慮されましたので大和町の小学校の御理解を得まして現在通学致して居ります元街小学校へ引きつづき通うことに決定致しました。
今日まで私共で扱いました混血児の数は男児二〇〇名女児一九〇総計三九〇名でその中昭和二十一年より二十九年三月までに養子として家庭へもらわれましたのが男児四七名女児四七名合計九四名、二十九年より現在までの間に養子となりましたものが男児一五名女児二十四名合計三十九名で私共も国の保護を頼ると共に極力理解ある家庭への養子を努力致して居ります。
内外多数の方々の御協力により少年の町の第一歩はふみ出されました。然し数多くの問題はなほ将来に残されているのでございます。物質的に精神的に皆様の御協力を得てこそよき国民の一人として生ひたって行くのではございませんでせうか。ここに今日までの数々の御協力を感謝致しますと共にあわせて今後の御支援を心から願ひ天守様の豊かな祝福を皆様の上に祈りつつ、少年の町設立に至りました経過を御報告申し上げます。
少年の町の混血児
この施設が出来たのは、横浜の当時の新井司教さんが横浜の「聖母愛児園」の依頼で、根岸台にあった修道会に依頼してできたものだった。依頼されたのは学齢期、学校に通わなければならなくなった混血男児のための施設ということだった。この依頼は1953年昭和28年、当時子供たちは7歳だから、生まれたのは昭和21年、妊娠したのが昭和20年の終戦の年という事になる。第1回目に入ってきたのが34名、全員混血児だった。(別情報では、黒人系21人、白人系5人、韓国人系1人、日本人の孤児12人であった)。
ところが、学童期の子供が入ってきたというのに、大和市の地元の住民や学校の反対で、入学が出来ず、毎日大和から横浜の小学校へスクールバスで通うということが5年間も続いた。教育委員会も反対した。何故かというと、混血児だったからだ。「冗談じゃない、そんなものを建てたら黒人の町になるぞ」と言われ、小学校のPTAの90%が反対の署名をしたほどであった。
はじめは、その施設の建築自体が反対されていたが、学校に通わないということで建物だけの建築が許された。そして、子供たちは、横田基地のクリスマス会に招待されたり(私も招待されて子供たちを連れて行った経験がある)、厚木基地に食事や映画の招待を受けるという生活をした。
「思い出:笠原のぶ子(ボランティア)クリスマスや御復活祭になりますと、たくさんの兵隊さんが来て子供たちをお食事に招待してくれます。・・・・外人の家族が来た時レオが言いました『お姉ちゃん、僕たちにもお父さんやお母さんがいたんだよね』・・・戦争の結果とでも言いましょうか、何の罪もない子供たちが生まれながらにして不幸を背負わなければならぬ運命のいたずら、戦争のない世界の平和を祈らずにはいられません」この彼女の文章だけが真実を述べていると思う。
「白人や、黒人との混血児の収容施設が大和町の林の中に建てられる。・・・・それは昭和21年の秋、横浜の女子修道院の玄関に混血の赤ちゃんが捨てられていたことがきっかけであった。・・・・終戦後まもなく「戦争の落とし児」と呼ばれる子供が年々増加していくために困っていた、・・・・創立当時30数名が入所したが、 すでにその時112名はアメリカ人の家庭に養子に行き、13名は日本人に引き取られていた。・・・・・施設に入った子供たちの衣食住の世話は、「お告げの姉妹会修道女」が担当している」。
アメリカ人兵士と日本人女性との間に生まれ、学齢期に達した混血の孤児(男児)を収容するため、横浜市中区山手町にあった聖母愛児園の分園として昭和30(1955)年、大和市の約8千坪(2万6,400㎡)の敷地に建てられました。混血児に対する偏見が強かった時代、最盛期には60人ほどの子供たちがここで集団生活を送り、巣立っていきました。当初、子供たちはバスで山手町の元街小学校へ通学していましたが、交通量の増加などでバス通学が困難になったため、交渉の末、昭和35(1960)年から林間小学校へ通学しました。その後、在園者・入園者の減少や社会状況の変化などによりその役割を終え、昭和46(1971)年3月に少年の町としての一切の業務を終了しました。土地(2万2,400㎡)と建物は市に売却され、社会福祉施設「松風園」として開園しました。
「ファチマの聖母少年の町」のあゆみ
ファチマの聖母少年の町 創立30周年記念アルバムより
1953年 昭和28年
10月 横浜聖母愛児園の要請により荒井横浜教区長が、根岸台のキリスト教教育修士会に学齢期に達した 混血児男子のための施設を建設したいので協力して欲しいと願われ、承諾された。
10月 一期生の3名が四月から通学していた横浜聖マリア国際学校から市立元街小学校に転校。
12月 教皇より五万ドル、横浜のカトリック信者より九千ドルの寄付を頂き、大和町南林間に八千坪の土地を購入、346坪(収容人員9名)の建物の建築を準備。名称を横浜聖母愛児園分園、「ファチマの聖母少年の町」とする。
1954年 昭和29年
4月 44名の子供が市立元街小学校入学。
8月 定礎式(荒井司教司式)、建築着工。
10月 棟上式(荒井司教司式)。
1955年 昭和30年
2月 子供達34名横浜聖母愛児園より少年の町に移る。
3月 落成式(荒井司教司式)、フルステンベルグ教皇大使、内山神奈川県知事、八木大和町長、外国人、日本人約千名、子供達34名出席。
3月 園長にラウル先生、アシスタントにモリス先生、職員山崎武、太田、小金井。お告げの姉妹会シスター西、上野、杉本他数名が着任。
4月 ピエール・ロバート先生着任(朝晩のみ)
4 月 9名の子供が市立元街小学校入学。大和町の地元住民、学校の反対により、林間小学校へ入学かなわず、元街小学校ヘスクールバスにて通学(以後 5年間続く。)
7月 横浜聖マリア国際学校ヘプール遊びに訪問。
8月 モリス先生離任、鈴木着任。 日曜日の午後は、半日を費して散歩、以後36年頃まで続く。ビンゴ・ゲーム遊びは、閉鎖まで続く。
10月 末吉教会幼稚園主任山田先生(現パーカー夫人) 定期的に学習、運動指導をボランティアとして60年まで続ける。
12月 横田基地にクリスマス招待。
1956年 昭和31年
4月 2名の子供が市立元街小学校入学。
6月 米軍基地兵士達の協力で2日がかりで、全館のペンキぬりかえ。
6月 ファチマの聖母像を細井氏が制作。正面玄関前に設置(荒井司教祝別)トマス先生着任。
10月 全員で日光へ日帰り旅行。
12月 厚木基地に食事、プレゼント、映画の招待。
1957年 昭和32年
3月 立正俊成会町田支部の人達による労働奉仕が始まり以後6年続く。 48名の子供が市立元街小学校入学。
5月 エリザベスサンダースホームを一日訪問。
7月 後楽園球場で、エリザベスサンダースホームの子 供達と共にプロ野球観戦。
12月 横須賀基地のクリスマス招待。
12月 米軍家族の家に数日間、少人数で分宿。以後8年まで続く。
1958年 昭和33年
3月 ラウル園長離任。
4月 マイケル先生園長着任。
4月 1名の子供が本園より入園。市立元街小学校入学。
4月 テスト的に5名、大和町立林間小学校へ転入。
4月 九州から田中さん一家が来られ、農作物、特にさつまいもを作って、園児へ提供して下さった。
6月 多田着任。
12月 立川基地にクリスマス招待。
1959年 昭和34年
3月 第一期生の3名が横浜市立元街小学校卒業。
4月 3名の子供が本園より入園。横浜市立元街小学校入学。
4月 厚木基地海兵隊員の協力を得て、ブラザーと子供達プール建設に着工。
8月 江の島海水浴。ウイルバル遊びが流行、36・7年頃まで続く。
9月 伊勢湾台風によりうさぎ小屋吹き飛ぶ。
8月 TBSテレビに、トマス先生、一期生3名、「日常生活について」インタビュー出演。
12月 稲村着任。
1960年 昭和35年
1月 東京セントメリーのブラザー達がプレゼント持参 で訪問、以後閉鎖まで毎年一月一日の訪問が続けられる。
3月 山崎(武)、太田離任。
4月 4名の子供が本園より入園、大和市立林間小学校に入学。
4月 三期生から七期生まで33名が地元大和市立林間小学校への転校が許可され、横浜へのバス通学が打ち切られた。
4月 トマス先生海外学習のため、ガブリエル先生と交替。
8月 プール完成。
8月 お告げの姉妹会会員全員離任、5年間、4名のシスター達が交替で勤務された。
10月 ボイラー室、ロデオ施設を建設。馬3頭、牛1頭で休日には、アメリカ人も一緒に馬を楽しむ。ロデオ大会も開催。
12月 鈴木離任。
12月 栄、笠原着任。
12月 クリスマス会(米軍基地にて)
1961年 昭和36年
2月 マイケル園長、トマス先生離任。
ルベル神父園長着任(プラド会司祭)。西田着任。
4月 3名の子供が本園より入園、大和市立林間小学校入学。2名の兄弟がエリザベスサンダースホームより移る。
4月 山本、大久保着任。
5月 戸田着任。
6月 河原着任。野球、相撲等で心身を鍛える。森の中で宝探し、陣取りなど遊びの範囲広がる。
7月 鶴見教会青年会、清泉女子大カト研の人達の協力で、夏休み中学習指導を集中的にする。以後3年間続く。
8月 静岡県徳山で、清水、藤枝、焼津三教会と合同で夏期学校を一週間、その後同所で1週間、学習、水泳で心身を鍛える。
9月 市立林間小学校校長、副校長、PTA役員、園長、指導員が集まり、子供達の処遇について話し合う。
9月 1名の子供の養子縁組成立(養父引き取り)。
9月 夏休み学力別グループの学芸発表会(荒井司教、ボランティア、地域の人招待)。
10月 横浜教区カトリック婦人同志会の少年の町後援会が組織され、以後2年間経済的援助を続けられる。
10月 少年の町運動会。
12月 ピアノ教師島村先生の生徒達の発表会と合同で少年の町でクリスマス会。
座間基地にクリスマス招待。
小金井、稲村離任。
1962年 昭和37年
3月 3名の子供が市立大和中学校卒業。
3月 横浜教区カトリック婦人同志会主催「音楽と映画会」が県立音楽堂で開催。職員、子供達も合唱で出演。
4月 2名の子供が淵野辺職業訓練所入学。
1名の子供が上瀬谷通信隊に就職。
4月 6名の子供が本園より入園、市立林間小学校入学。
4月 1名の子供が入園。市立林間小学校四年に編入。
1名の子供が横浜訓盲院に移る。
7月 西田離任。安養寺着任。
7月 1名の子供を母親が引き取る。
8月 一期生3名と戸田、美しが原でキャンプ。
9月 村上、川手着任。
9月 学習指導グループに対する「感謝の集い」(荒井司教出席)。
1963年 昭和38年
3月 2名の子供が淵野辺職業訓練所卒業。就職。
3月 5名の子供が市立大和中学校卒業。
3月 米国へ養子に行った1名がベトナム従軍の帰途来園。
3月 「映画と音楽の集い」県立青少年センターで、横浜教区カトリック婦人同志会主催で開催。
4月 2名の子供が相模原職業訓練所入学。他3名就職。
4月 4名の子供が本園より入園。市立林間小学校入学。
4月 中学生、丹沢に2泊のキャンプ。
4月 山崎神父着任。
6月 父の日を祝う(荒井司教出席)。
6月 東京の蕗の会の人達の奉仕が始まり、42年まで、毎月1、2回労働奉仕とレクレーション活動に来園。
7月 蕗の会会員による七夕祭り。
7月 蕗の会会員による東京都北区「青年の集い」に参 加(中学生)。
8月 大磯ロングビーチ招待。
8月 神奈川県施設対抗水泳大会で優勝。
8月 横浜港停泊中のドイツ船に食事招待(小学生)中学生は、蕗の会会長宅や山手教会信者宅に、数日間家庭生活、仕事体験。
8月 蕗の会の招待で、名栗川に2泊のキャンプ(全員)
8月 川手離任。
12月 1名の子供を母親が引き取る。
12月 アフターケアー施設聖ヨゼフ寮工事着工。
12月 クリスマス会招待。
1964年 昭和39年
1月 蕗の会会長知人宅で、数日間家庭生活体験(小学生)
1月 山本離任。岸、アフターケアーのため着任。
2月 9名の子供が市立大和中学校卒業。
3月 戸田離任。
4月 2名の子供が相模原職業訓練所入学、他7名は就職。
4月 1名の子供が本園より入園、市立林間小学校入学。
4月 一、要保護混血児の減少。二、社会情勢の好転による母親の引き取り。以上の理由により、本年を以って児童の受け入れを中止。
4月 三期生の1名がオートバイ事故で死亡。大和教会で葬儀、告別式。
4月 卒業生3名、聖ヨゼフ寮入寮。
4月 矢島着任。
5月 聖ヨゼフ寮落成式(荒井司教司式)
5月 後楽園球場でプロ野球観戦。
8月 神奈川県施設対抗水泳大会優勝。
8月 横須賀の武山自衛隊基地に1週間夏期転住(中学生)
8月 四阿高原神学生寮(長野県小県郡真田町)に1週間夏期転住(小学生)
8月 山手信者宅に数日間、中学生家庭生活、仕事体験。
8月 アメリカへ養子に行った1名が、ベトナム従軍の帰途、立ち寄り1週間聖母寮の入口屋根のペンキ塗りなどをする。
9月 1名の子供が養父の許に渡米。
10月 東京オリンピック、サッカー観戦。
10月 石川着任。
10月 新幹線開通祝招待で静岡に遊ぶ(中学生)。
1965年 昭和40年
1月 蕗の会会長知人宅に正月、数日間家庭生活体験。(小学生)
3月 2名の子供が市立大和中学校卒業、就職。
5月 山崎神父離任。
8月 四阿高原神学生寮に夏期転住。
8月 神奈川県児童福祉施設対抗第五回野球大会準優勝。
9月 1名の子供が棒高飛び大和市一位入賞。
9月 安養寺離任。
9月 フジテレビ、スター千一夜に、プロ野球の長島、王、金田選手と共に中学生が出演しインタビューをする。
10月 国際婦人同志会の援助で屋根の修理。
1966年 昭和41年
3月 8名の子供が市立大和中学校卒業。
3月 河原、矢島離任。
4月 1名の子供が横浜高校入学。(母親引き取り)
4月 1名の子供が神奈川県立厚木高校入学。他6名就職。
8月 四阿高原神学生寮に2週間夏期転住。
8月 厚木基地花火大会招待。 8 鎌倉に一日ハイキング。
10月 国際婦人同志会の援助により食堂改造。
1967年 昭和42年
1月 一期生成人式(荒井司教、ブラザー・トマス、愛児園シスター達出席)
3月 4名の子供が大和教会で受洗。旧職員代父となる。
3月 1名の子供が市立大和中学校卒業、就職。
3月 村上離任。
4月 川手着任(再)
8月 1名の子供が山手教会信者村瀬宅に2週間家庭生活、仕事体験。
8月 四阿高原神学生寮に2週間夏期転住。
9月 神奈川県施設対抗水泳大会で1名の子供が背泳で大会新記録。
9月 1名の子供が大和市中学三校対抗試合で走幅跳一位。
10月 国際婦人同志会の援助により風呂場改造。
12月 クリスマス会(荒井司教出席)
1968年 昭和43年
1月 二期生成人式。
3月 1名の子供が市立大和中学校卒業。
4月 1名の子供が立県神奈川工業高校入学。
8月 四阿高原神学生寮に二週間夏期転住。
9月 1名の子供が引き取られる。
12月 栄離任。
1969年 昭和44年
1月 石川離任。
1月 西田着任(再)
1月 三期生成人式。
3月 3名の子供が市立大和中学校卒業。
4月1名の子供が神奈川県立平塚農業高校入学。1名の子供が岡村製作所技能者養成所入学。市立横浜 商業高校定時制入学。
4月 1名の子供が就職。
4月 川手離任。
4月 中間期として塩谷神学生着任。
8月 四阿高原に二週間の夏期転住。
8月 立川基地花火大会招待。
9月 1名の子供が父親に引き取られる。
9月 西田離任。
9月 1名の子供が向陽学園に移る。
9月 財団法人大和市公共土地公社に土地六、七九三坪、本館、職員宿舎、売却契約が成立。 9月 聖ヨゼフ寮、隣接の土地に移設工事着工。
10月 ルベル園長離任。
10月 松村菅和神父園長着任。
12月 聖ヨゼフ寮移設工事完了、引越し。
1970年 昭和45年
1月 聖ヨゼフ寮移設祝別式(荒井司教司式)
3月 塩谷神学生離任。
3月 中間期として山本神学生着任。
4月 1名の子供が慈生会ベトレヘム学園に移る。
3月 立川基地招待。
8月 四阿高原神学生寮に夏期転住。
9月 松村園長離任。
9月 池田神父、園長着任。
10月 1名の子供が新聞販売店に住み込みながら高校通学。
12月 クリスマス会(立川基地の少年の町後援会の人々を招待。)
1971年 昭和46年
1月 五期生成人式(浅田町教会)
2月 昭和三十九年四月に死亡した子供の遺骨を大和教会より山手教会納骨堂に納める。
3月 5名の子供が市立大和中学校卒業。
3月 1名の子供が県立神奈川工業高校卒業、母親に引き取られる。
3月 卒業祝いと、お別れ夕食会。(荒井司教出席)
3 月 1名の子供が母親に引き取られる。1名の子供が父親に引き取られる。
3月 1名の子供が「聖園子供の家」に移る。
3月 多田、大久保離任。
3月 山本神学生、アフターケアー指導員として引き続き残る。
3月 横浜聖母愛児園分園「ファチマの聖母少年の町」としての一切の事務終了。以後は、アフターケアー施設ヨゼフ寮として存続。
4月 1名の子供が岡村製作所技能者養成所入学。横浜市立商業高校定時制入学。他4名は就職。
1973年 昭和48年
2月 石川家族で着任。以後、スキー、バーベキュー、クリスマス会、一泊旅行、海水浴などを適時行ない、卒業生間の連絡、疎通をはかる。
4月 亡くなった子供の追悼ミサ (田代神父司式)
1974年 昭和49年
5月 20周年記念を「少年の町」にて祝う。
5月 「少年の町」家族会を結成。(再就職、入院その他、生活上の諸問題について助け合うために、卒業生間の連絡を絶やさないようつとめる。)
1975年 昭和50年
山本離任。
1976年 昭和51年
6月 モントリオール(カナダ)にてマイケル先生帰天。
10月 マイケル先生追悼ミサ(大和教会)
1977年 昭和52年
5月 25周年記念をキリスト教教育修士会修道院で祝う。
以後、毎年5月、同窓会を行なう。
1982年 昭和57年
1月 新年会(浜尾司教出席)
2月 聖ヨゼフ寮改築着工。
5月 戸田帰天。
10月 新聖ヨゼフ寮完成祝別式(浜尾司教出席)
1983年 昭和58年
5月 亡くなった子供1名と戸田、村上の追悼ミサ (田代神父司式)
1984年 昭和59年
4月 ルベル神父来日。
5月 創立30周年記念式。
『BOYS TOWN ファチマの聖母少年の町 創立30周年記念アルバム』刊行。
1994年 平成6年
10月 40周年記念をキリスト教教育修士会横浜修道院で祝う。
付記 この年表は、昭和59年に刊行された『BOYS YOWN ファチマの聖母少年の町 創立30周年記念アルバム』中の年表を一部加筆し、転載したものです。
出典:話者:トマス・ランブレ、大久保昌子、聞き手:高野和基「聞き書き『ファチマの聖母少年の町(Boys Town)』」大和市役所管理部庶務課編『大和市史研究』(第21号、1995年3月)