創立者モード・パウラス

1.熊本県近代文化功労者(昭和60年度)モード・パウラス博士

慈愛園の創立者であり広安愛児園の創立者でもあるモード・パウラス先生は、大正9年から昭和34年まで、第二次世界大戦の日米戦時を除いて、35年間、熊本に滞在して社会福祉の発展に寄与し、23施設を創立しました。日本人にキリストを伝え、愛と福祉を高めたその事業と人物について「熊本県近代文化功労者」として顕彰されました。

1889年  北アメリカのノースカロライナ州ババーの片田舎に生まれた。
サレム教会で洗礼を受ける。
*パウラス一家は多子家庭で1男7女の大家族でモードはその5女として生まれた。
1899年  父が疫病にかかって一夜のうちに病死
*母は、9人の子供を抱えた未亡人となり苦労の多い生活が展開された。子どもたちは母親の苦労を見かねて、みんなが力を合わせて働いた。
1900年  日本伝導をしていた宣教師の「キリスト教伝道報告」を読み深い感銘を受け「私は日本に行きたい。そして、日本人の為に働きたい。」と決意する。11歳の時である。
1914年  レイノア・ライン大学卒業、テモテ高等学校の教師となる。
1917年  ニューヨーク神学校に学び、その後、コーネル伝道学校で聖書を学ぶ
1918年  日本来日、東京の日本語学校にて日本語を学ぶ。
1919年  日本福音ルーテル教会では、アメリカ宣教師ネルソン夫人の発案によって、社会事業施設の設置が計画され委員会が設けられた。
1920年  ネルソン夫人に代わってモードが創立委員長に任命される。
熊本新屋敷に家を借りて、2~3人の子供を収容して仕事を始めた。
その後、社会福祉事業が展開されていったが、当時の孤児院では、40人の子供が1棟の寮舎に収容され、午前と午後の2交代制で保母が代わる代わる子どもたちの世話をしていた。従って、そこの子どもたちは母性の愛情を知らず、常に保母が代わるために愛撫の心に飢えていた。そして、家庭生活のことは全然分からないというのが実情であった。
妹のエーネは大学で社会事業を専攻していたが、そこで、家庭主義の小舎制養護の理論を教わっていたため、姉モードに小舎制を勧めたこともあったし、実際に慈愛園の保母として姉に協力したこともあった。
自分の貧困な家庭生活の体験と、妹からもたらされた大学による理論研究が、熊本に独創的なホーム式養護を誕生させた。
これが、熊本における小舎制養護の始まりです。

 

Maud Powlas    annie powlas

2.小舎制養護の始まり(慈愛園子供ホーム)

家庭的処遇を第一にするため、家屋は一戸建ての洋館とし、第一ホームから第八ホームまでを設置。ホーム間の間隔は、20~30mとした。ホームの周囲は、畑、花壇、野菜園とし、そのホームに属する耕作地が用意されて、そこに住む保母・児童指導員・児童によって花や畑が作られ、そのホームで消費され、自給自足とは言えないが、出来るだけその精神を生かすように運営されたので、全員がよく働き、児童は保母の手伝いをした。ホーム毎に台所を持ち、現品配給を利用して、児童も小学4年生位から料理当番にでて、全員が食事作りを手伝った。
モードは実家が9人兄弟であったが、1人は15歳で早死したことから、1ホーム子供8人として保母の限界とした。年齢を按配して配置し、保母をお母さんといい、そのホームに住むもので兄弟の交誼がもてるようにした。生活様式のすべてを家庭になぞらえ、家庭的精神要素を多くとりいれる運営を行ったが、これは、日本において独特のものであり、他の小舎制養護の追従を許さぬものがあった。すなわち、日本の児童養護施設のモデル的存在であった。

3.歴史を変えた名称変更

養老院→老人ホーム、母子寮→母子ホーム、孤児院→子供ホームなど、モードは、ホームと言う名称で施設を名付けた。そして、これらは後年、塩谷総一郎先生の発案に関わる老人福祉法案の施設名称をすべて、老人ホームと名付けた起源となっている。その点、日本の近代的運営のモデルと言える。

4.創立に関わった主な児童関係施設

児童養護施設:慈愛園子供ホーム・シオン園・広安愛児園・別府平和園
保育所 :ひかり幼児園・愛光幼児園・愛泉保育園・白羊保育園
盲聾唖児施設:熊本ライトハウス
幼稚園   :めぐみ幼稚園

5.モード・パウラス先生との別れ

1979年  慈愛園創立60年記念式に出席のため、来熊。熊本市長より感謝状の贈呈。
「熊本のみなさんにサヨウナラと言って下さい。」と言ってアメリカに帰られる。
1980年  ノースカロライナの故郷で召天。享年91歳でありました。

6.手記の日本語訳

モード・パウラス先生が米国で出版された手記の日本語訳が「愛と福祉のはざまに」です。

目的の一致のために

この表題は、モード・パウラス著「愛と福祉のはざまに」の151ページにあります。 慈愛園子供ホーム運営の初期の頃、10名の常勤職員と2名の非常勤職員の時代があり個性的で識見を持った働き人のグループであった。個性的な人の集まりは、時には、不調和を招き、その時、パウラス先生が考えたことは!
「子供たちの育て方、老人の養護、一般社会的向上の仮説のなかから、目的の一致を引き出すのが、施設長としてのわたしの義務であった。」
当時の職員たちは、各自、自分こそ慈愛園はいかに運営されるべきかを、他の人よりもよく知っているという確信を持っていた。事実はだれも知ってはいなかった。
また、4名の職員は、10歳から16歳年長であり、彼女たちの意見によれば、自分の子供の子育てをしたことのある自分が、子育てをしたことのないパウラス先生より賢いとの見解を示していた。しかし、パウラス先生の信念は、
「わたしたちは、進歩した知識の社会事業のモデルたるべく任命されたものである。旧いやり方はより科学的、より衛生的な方法にゆずらなければならない。」
でありました。運営的にも、普通一般の風習と、モデルとして模範になる施設を確立する試行錯誤の中間の線を行くのは容易ではなかった。時には、
「あなた方のやり方は何ですか。わたしたちは人々の憐れみはいりません。日本人は、境遇の如何に関わらず、人間は人間であることを学ばなければなりません。」と気性が燃え上がることもあった。
施設長としてのパウラス先生の元に16歳年長の職員がいた。業務的には有能ではあったが、リーダーには任命しなかった。
「専門的訓練の欠如と共に、他の職員と協調できないためであった。」
パウラス先生は、職員を採用する条件として、「わたしたちは責任を遂行するために、十分な意志力を持った人がほしい」との見解を持っていた。
*モード・パウラス先生は、熊本での社会事業の展開や慈愛園運営において、戦前戦後と方針等をバージョンアップしていることが「愛と福祉のはざまに」の中で記されています。勿論、そこには、後に千葉県にて献身的な働きをされた妹のエーネ・パウラス先生の影響も多大にあったことは言うまでもありません。
当時と現在では、時代背景が異なりますが、モード・パウラス先生が、いよいよ日本を去る時、潮谷總一郎先生を始めとした当時の若い人の手に事業をゆだねられて行かれました。それは、同時に今働いている職員の手にもゆだねられていると言うことになります。
創始者の意志を引き継ぎ「目的の一致のために」チームワークを築き上げ、子どもたちの幸せのために事業運営を展開していきましょう。
「モードは、自分の力で、社会事業施設をたくさんつくって、これを経営しているとは少しも思っていません。これは神様のお仕事であると信じています。モードは、神様の手となり足となって働いただけです。だから大きい仕事をしても、少しも誇りませんでした。」

「くるみの実のなるころ」潮谷總一郎著より

2.幼児の躾について「愛と福祉のはざま」171ページ~
①恐怖心をおこさせることが矯正の鞭
②もう一つの鋭い躾の武器は、「みんなに笑われるよ」
③最も残酷で傷つけるやり方は、捨ててしまうというおどしである。
この三点は、モード・パウラス先生が最も嫌った方法です。
日々の子どもたちへの対応の中で、恐怖心を起こさせたり、「出て行きなさい」と叱責したり、「そんなことでは、みんなに笑われたり、馬鹿にされたりするよ。」などの態度や言葉がけをしていないでしょうか。勿論、「様子を見ましょう。」と放任したり、無関心であったりは、パウラス先生の愛の実践から大きく遠ざかります。
「初心忘るべからず」の言葉通り、創始者パウラス先生の愛の実践から溢れ出た教訓を振り返りましょう。

その名前は「ミス、モード・パウラス」です。

その名前は「ミス、モード・パウラス」です。

モード・パウラスは、1889年(明治22年)北アメリカはノースカロライナ州バーバーで、パウラス家の1男8女の兄弟の5番目の女の子として生まれました。少しちじれた赤味がかった髪の毛をした可愛い赤ちゃんでした。パウラス一家は、かなりの広さの農場や山林を持ち、農業を営み作物や家畜を養って生活をしていました。その生活は決して裕福とはいえませんでしたが、平和で幸せな家庭でした。
両親は子供の教育に大変熱心で、又敬虔なルーテル教会の信徒でした。そんな家庭の子供としてモードは、生後2ヶ月も経たないある春の日に、カロライナ州サウスベリーのルーテルサレム教会で洗礼を受けました。
然しそんな幸せな家庭に、ある日突然不幸が訪れました。それは大黒柱だった父親の病死で、モードが10歳の時でした。母親のマーガレットは9人の子供を抱え未亡人になってしまいました。たちまち母親の肩には農場の経営と子供の教育という重荷がのしかかって来ました。
母のマーガレットは朝早くから夕方まで農場の仕事に励み、子供達の教育にも努力しました。子供達も母親を助けて家事の手伝いから農場のお仕事、家畜の世話まで、学校の傍ら一生懸命働いたのです。その頃長女のローザは18歳でしたが、大學を出ると家計を助ける為、近くの孤児院の保母さんとして働いていました。このことがモードが後年日本に来て孤児たちを助けるため社会奉仕をする遠因のなったのです。
モードは学校でも勉強に励み、家でも母親を助け、農作業や家畜のお世話に精を出しました。彼女が11歳になったそんなある日、モードの生涯を決めた忘れられない出来事にめぐり合いました。
それは、彼女が日頃足を踏み入れたことの無い小屋の屋根裏に入って、あるものに出会ったことでした。それは亡くなった熱心なクリスチャンであつた父親が残した「ルーテル教団の古い伝道新聞の束」でした。その新聞には、教団の宣教師達の外国での活動の報告がたくさん書かれていました。
その記事をモードはむさぼるように読み始めました。特にその中で彼女の心を捉えたのは、日本の佐賀県で宣教に従事していたリッパ―ドと言う婦人宣教師の報告の記事で、母親の病の回復を毎日神棚に祈る太郎という少年のお話でした。
モードにとっては、心を持ってない木の偶像に祈ってるとしか思えませんでした。この記事を読んで可哀想な少年にモードは涙を流しました。そしてモードは「私も宣教師になって日本に行きイエス様を知らない日本の子供達に、子供を愛し死んで下さったイエス様の事を教えてあげよう」と思いました。
彼女にとってこの事は神様がモードに「キリストの使徒となって、日本に行くように。」と言われている様に感じられました。そして「私は日本に行き、自分の生涯を捧げて、子供達にイエス様の事を教えて上げなくてはいけない。」と決心したのでした。彼女はその場で長い時間、自分の望みが叶えられるように、と神様に祈りました。
モードは高校・大学生活のなかでも、常に「神様のお召しによって日本に行く」という思いに導かれ、勉強に励みました。大学を出ると教会学校の先生をしたり、高校の先生をしたりして、その時を待ちましたが一向に日本に行けるような機会は来ませんでした。
矢張りそのための勉強をしなくてはいけない、とニューヨークの神学校に入り更にはコールネル大學の伝道学校に学びました。 1918年大正7年、やっと念願かなって、サウスベリーの聖ヨハネ教会に於いて、伝導局の任命を受け日本に行く事が認められました。屋根裏部屋で新聞を読み、「宣教師になって日本に行く事」を決心してから18年もの歳月が流れていました。
その年の夏いよいよ日本に旅立つ日が訪れました。サンフランシスコから大きな船に乗り日本に向けて出発しました。生まれてはじめての長い長い船旅でした。途中で嵐にあったり船酔いに苦しんだりしましたが、9月1日、海の上から見た美しい富士山に感動しながら横浜の港に日本での第一歩を印しました。
日本語学校での1年間の日本語の勉強を終え、宣教師として佐賀県に派遣されました。丁度その頃、ルーテル教団では日本に社会事業施設を造る計画があり、その施設が熊本に作られることになり、モードにその仕事を創立委員長としてやるように、と要請されました。
宣教師としての勉強は充分にしたつもりでしたが、社会事業施設の設立や経営は初めてのことであり、モードはどうしてよいかわからず戸惑いましたが、日本で社会事業をしている宣教師や日本人の社会事業家などを訪ねて、その教えを受けるなどの努力を続けました。
その頃の日本は、経済の不況がはなはだしく生活に困る人々が多く、苦しい生活の故に自分の子供を捨てたり、お金のために娘を売ったりするような人身売買が当たり前の様に行われているよな時代でした。
モードは家を一軒借りたりして、身寄りの無い子供達やかわいそうな娘達を保護する仕事を始めました。此れがモードの日本における神の愛を身を持って実践する第1歩の仕事になりました。


モードのこの働きを聞き、助けを求めてモードのもとへ逃げてくる娘達も大勢いました。また熊本市の中心部を流れている白川の幾つもの橋の下には浮浪者が住み着いていて、筵で作った小屋の中で生活していましたが、モードはそれらの人々を毎日の様に訪ねては、衣類や食べ物を与えたり、病人には薬を飲ませてあげたり、そこに住んでいる子供達を引き取って宣教師館につれて帰ったりもしていました。そのため借りた家も宣教師館もたちまち一杯になってしまいました。
その頃、熊本に予定されていた社会施設も具体化し、アメリカのルーテル婦人団体などからの多額の寄付金を基にして、熊本の水前寺公園近くの健軍村(現在は市内健軍町)に6000坪の広い土地を購入し、老人ホーム、子供ホーム、婦人ホームなど建設すべく工事が進められていました。
1923年大正12年にはこれらの施設が完成し、開園式が行われる事になりました。開園式にはアメリカと日本のルーテル関係者をはじめ地元の熊本県の県知事、熊本市長など多くの人たちが参列しました。そして施設の名前が「慈愛園」と命名され、輝かしい第一歩を踏み出しました。モードが日本に第1歩を記してから5年目でした。

聖母愛児園65周年(2011年)に際して

「聖母愛児園創立65周年お祝いのメッセージ」

社会福祉法人聖母会
理事長 風間まさ子
聖母愛児園創立65周年記念に当たり、社会福祉法人キリスト教児童福祉会様の寛大なご尽力により老朽化した当園の新築工事を無事竣工されましたことを心より感謝し、お礼申し上げます。
当園は昭和20年8月15日第二次世界大戦の終結による社会情勢の激変に伴い、昭和21年4月に一般病院(中区山手町682)の玄関先に幼い子どもが捨てられていたことから始まりました。創立以来、幾星霜(いくせいそう)を回顧してみますと、戦争で如何に多くの罪のない人々が犠牲となったかがわかり、戦争は再び許されるものではないという思いが強く湧いて参ります。この苦難の時代に関わってご支援下さった多勢の方々の並々ならぬご恩は永久に忘れ去られるものではなく、救済にあたって下さった数々の恩人方に幾ら感謝しても感謝し尽くせるものではありません。聖母愛児園をここまで支えて下さった皆様の上に神様の祝福と恵みが豊かにありますように心から願ってやみません。
国際横浜一般病院は昭和10年より昭和26年まで現在の社会福祉法人聖母会の前身、社団法人大和奉仕会の経営下にありました。
戦後、両親を失い家庭に恵まれない大勢の戦災犠牲者の孤児、捨て子、特に不幸な混血児が大勢保護され、病院の一隅に収容され、養育が始められました。人数も次第に増え狭溢(きょうあい)となったため昭和21年9月に神奈川県当局の絶大なるご支援によって当地横浜市中区山手町68番地に乳児院を独立させ、聖母愛児園を創立いたしました。初代園長には大和奉仕会員ルゼンヌ・アンナマリーが就任致しました。
横浜一般病院は横浜開港から僅か8年後の欧米人を中核とする委員会の手によって、明治元年に横浜市中区山手町の外国人居留地に設立され、人々のご寄付のみによって運営された日本最古の国際病院でした。開港以来、横浜は日本の国際貿易の中心地として最も栄えた港町で知られるようになり、第二次宣教時代に入って最初の宣教師が再上陸し、初めての教会を建てた場所としても重要な位置を占めていました。
当時、聖母愛児園の経営主体は、明治30年頃に、熊本でハンセン病の救済に当たっていたカトリック司祭ジャン・マリー・コール師より招聘を受けて来日した私どもマリアの宣教者フランシスコ修道会の外国人会員5人がはじめた当修道会の社会事業に端を発しております。その後、行路病死者の遺児・路傍に捨てられた老婆を求められるままに収容し、児童養護施設・老人施設が次々と設立され日本各地に広まった修道会の事業を包括して、昭和4年、内務大臣より「社団法人マリア奉仕会」として認可されました。横浜には、昭和9年英国領事を委員長とする国際病院管理委員会から外国人のために働く看護修道女の派遣を求められたことにはじまりました。
戦争による戦火の激しい昭和19年1月、国際一般病院は財団法人横浜一般病院として診療業務を継続することになりましたが、山手地区一帯が外国人立入禁止区域に指定されたため、外国籍の看護修道女は抑留され、病院事業も苦境に立たされました。法人名も「社団法人大和奉仕会」として名称を変更、昭和25年4月1日聖母愛児園は養護施設として認可され、昭和27年3月、わが国に社会福祉法が施行され、昭和27年5月24日「社会福祉法人聖母会」としての認可を受けました。その後、建物に白蟻が蔓延したため昭和32年3月定員120名の鉄筋コンクリート3階建に改築しました。
その後、日本社会も経済成長によって児童養護施設入所対象児童が大きく変わり、家庭崩壊、子どもへの虐待、低学年犯罪者が増加しました。そのため将来性のある子どもの養育が重要となり聖母愛児園にも専門的教育性が求められるようになりました。私たちは当園をよりふさわしく継承して下さる方を検討しました。社会福祉法人キリスト教児童福祉会は昭和22年アメリカルーテル教会、モード・パウラス宣教師が熊本旧陸軍演習所用地で、戦後大勢の家庭のない子どもたちの救済にあたられ、昭和24年養護施設「慈愛園」として熊本県知事に承認され、昭和28年厚生大臣の認可を受け、早い時期から小舎制養護を手がけられ、平成15年情緒障害児短期治療施設を開設されておられました。
法人所在地は熊本県上益城郡益城町古閑73で聖母会の熊本の児童養護施設運営に指導・協力して下さった法人です。平成12年キリスト教の精神のもと、小舎制を取り入れて運営をしておられるキリスト教児童福祉会から森 勉元園長、石嶺 昇現園長夫妻に出向して頂き譲渡の運びとなりました。この度、新園舎落成の良き日に聖母愛児園65周年記念を迎えることができましたことをお祝いし心より感謝申し上げ、神の豊かな祝福のうちに、聖母愛児園が益々発展されますことを心よりお祈り申し上げお祝いのことばといたします。

森 勉

創立65周年祝辞

前聖母愛児園施設長 森 勉
聖母愛児園、六十五周年記念を心からお祝い申し上げます。新園舎の落成も重ね心よりお慶び申し上げます。
私は、平成十四年四月から、聖母愛児園の施設長を拝命し、七年間子どもたちと生活を共にいたしました。
七十名の二歳から高校生までの、しかも女児ばかりの児童養護施設でありましたが、生活を共にしながら、子どもたちの心に寄り添うことを第一義に考えて日々を過ごして参りました。平成十九年度で退陣し後任に、その責を譲りました。
聖母愛児園は法人移管と言う転換期を迎え、社会福祉法人「聖母会」の一施設としての歴史を引き継ぎ、平成十七年十月からは、社会福祉法人キリスト教児童福祉会の一施設として、今日を迎えております。
聖母愛児園のモットーは、キリスト教精神に基づき、神の家族として明るい雰囲気の中で児童一人ひとりの個性を尊重し、児童の持っている素質を十分に伸ばすことです。園に迎え入れる子どもたち、園の職員ひとりひとりは子どもたちを迎える立場ですが、家族として、子どもたちひとりひとりに寄り添って、生活を営んでいきます。家族になると言うことは、職員の側も、子どもたちの側も大変な努力が必要であり、自分との闘いが必要です。その闘いはひとりで闘うのではありません。相手の子どもたちも職員以上に闘っているのです。それに気づいてやれる感受性を育てて下さい。新しく入園する子どもたち、新しく就職する職員たち、児童養護施設は家族になるためのコミュニティです。そして、自分自身を育てる場でもあります。
結婚して、相手の家に入ることに似ています。相手の家の家族になることは、そんなに簡単な事ではありません。味、塩加減、掃除の仕方ひとつでも、相手の家族の流儀があります。その流儀を学ぶまでに、色々な努力、学習があります。児童養護施設という職場は、そのような人生の学校、道場です。元気を出して、元気!!、元気!!、元気!!とかけ声を!!

森 勉

主のみ旨の継続に感謝

聖母愛児園元施設長 新垣政子
聖母愛児園創立65周年及び落成式を心からお祝い申し上げます。
半世紀以上の歩みである聖母愛児園を「大木」にたとえれば、昭和21年に小さな芽を出し、平成16年迄の59年間は社会福祉法人聖母会によって育てられてきました。その後、この「大木」は平成17年より社会福祉法人キリスト教児童福祉会へと「つぎ木」され、今ではみごとに神様のお望みになる方向へとすくすく成長している摂理的な不思議さの実現を感じております。
この長い歴史の中で、子ども達が先輩の旧職員、現職員、地域の方、多くのボランテアの方々のご厚意、支え、励まし等に恵まれてきたこと、育てられてきたことを神様に感謝しています。
実は、私もこの「大木」の成長過程における聖母愛児園で11年間過してきたことを思い出しています。あんなこと、こんなことがありました。それは時には、嬉しかったこと、楽しかったこと、失敗したこと、私の力不足からご迷惑をおかけしたこと、チャレンジしたこと等がありました。「すべてを益にして下さる神様」のお陰でしょうか、今では、全ての出来事が良い思い出として 懐かしく心に残っています。
又、私が関わった頃の子ども達は、色々と苦労の体験をしながらも今では立派な社会人として自立し頼もしい限りです。又、お母さんとして子育てに励んでいる卒園生もいます。このような状況にあるのは、本人の頑張りもありますが、職員、善意の方々の支えのお陰でもあると感謝しております。
さて、この度、落成式にあたりキリスト教児童福祉会理事長の 森 勉牧師様を初め、現施設長の○○様、事務長の○○様、職員の方々には新築の際、色々な面でご苦労をなさりながら、今日の日を迎えられたことはどれ程大きな喜びでしょう。改めて感謝の心で一杯です。子ども達を育てる環境の一環としての小舎制の家庭的な雰囲気の設計は子ども達にも安心感を与え、情緒面におおいにプラスになるのではないかと喜んでおります。家庭的な毎日の繰り返しの生活は、将来子ども達が家庭生活をおくる為の助けになることでしょう。そして、聖母愛児園を巣立った子ども達が実家である聖母愛児園に帰ってくる時は懐かしい「大木」で一休みし、癒され、パワーをもらって益々元気になるのではないでしょうか。
最後に、聖母愛児園の歴史を大切に継続して下さるキリスト教児童福祉会の皆様の働かれるこの事業は、昔も今も将来も変ることなく、大地の栄養分を沢山蓄えながら「大木」として神様のみ旨にそって成長していくことを信じ、期待しています。そして、子ども達のシンボルとしての沢山の葉も茂らせ、ひとり一人の子ども達が幸せになることを願いながら社会に送り出していかれることでしょう。
今後、聖母愛児園の益々のご発展の上に神様の祝福をお祈り致します。

横浜修道院

私たちの修道院は、 2009年に明治開港150周年を迎える歴史の町、横浜、山手の丘に建っています。周辺にはプロテスタントやカトリックの教会、修道会とそれらが経営するミッションスクール、中華学校などが並び、開港時の外国人居留地としての情緒豊かな文化と面影を今に伝えています。しかし、一方ではこの丘の下には寿町があり、そこには職を失い家族から離れ、路上生活を強いられている人々が住んでいます。
修道院から東に歩を向ければ、開国以来、教育、文化、産業などに貢献した様々な国の人々や、宣教師たちを偲ぶ「外国人墓地」があります。西に歩を進めば、私たちが所属する山手カトリック教会(横浜教区司教座聖堂)があります。この教会は1862年に外国人居留地に開国後最初の天主堂として建てられましたが、その後の移転、再建によって現在の聖堂となり横浜市の歴史的建造物に指定され、多くの人々が訪れています。
私たちが最初にこの山手の地に呼ばれたのは1935年12月28日、日本最古の国際病院「横浜一般病院」から委託された外国人の医療奉仕の為でした。このために派遣された最初のシスターたちは、フランス人2人、ルクセンブルグ人、ベルギー人、ユーゴスラビア人、日本人という国際的な6人で、聖ヨゼフを保護者と仰ぐ修道院を開設することになったのです。院長のSr.M.ロベルトは修道院日誌の第1ページに「…雪がちらつき、太陽なし。でも私たちのポケットには太陽が一杯詰まっている。日本にまた一つ主のお住まいが増えた。…」と記しました。その後、第2次世界大戦中の苦難を経て、戦後になると病院玄関前に捨てられた戦災孤児のお世話をしたことから1946年にベビーホーム「聖母愛児園」を開き、1950年には児童養護施設の認可が得られました。この頃私たちは一般病院から手を引き、聖母愛児園が共同体の主な使徒職となって、多方面にわたる暖かな援助を頂きながら、様々な苦しみを抱えた子供たちや彼らを支える職員と共に歩んできました。
しかし、2005年、これをキリスト教児童福祉会に移管し、現在は「聖母愛児園」も私たち横浜修道院もそれぞれに新しい歩みを踏み出しました。
この4月に私たちの共同体は4人で出発し、カトリック山手教会の一員として多くの方々と共にミサに与り、祈り、出会い、様々な関わりの場を頂いています。たとえば教会事務所、国際グループ、ホームレスの方々のための奉仕、教会の庭掃除、典礼奉仕などなど。これら私たちにできる奉仕を通して主の恵みをわかちあい、神の国をより多くの方々に伝える機会を頂いていることを感謝し、喜んでいます。また、病人訪問、聖母愛児園の卒園生・職員との関わりなど、私たちのもとを訪れてくださる方々との交流も大切にしています。
このような教会での奉仕や周りの人々との交わりを通して、私たちFMMが神様から託されている「世界宣教」に参与するものであること、またこのささやかな宣教活動を活気付けているものは、聖体礼拝と深い祈りにおける神様との一致、そして、お互いの弱さと違いを認め合い支え合う姉妹的な交わりであることを痛感しています。
私たちをこの道に呼んでくださったキリストに感謝し、今後も神様が貧しい私たちに求めておられることを祈りと現実の中で探し、共同体としてフランシスコのように苦しむ兄弟姉妹との連帯に生きたいと願い、支えを必要とする人々との関わりを大切にしていきたいと思っています。