聖母愛児園と混血児(横浜の歴史)

*ハーフ (混血) Wikipedia

2019年には、根岸外国人墓地に関わる動きがあり、GIベビーの亡骸の行方を調査する中で、聖母愛児園現存の資料が関わってきました。当時は、エリザベスサンダースホームもGIベビーを受け入れていますが、現在、残されている資料は、火災による焼失もあり少なく、あっても文字の判別が困難であったりします。それ故に聖母愛児園に現存している資料は歴史的にも貴重な存在となっています。
2019年1月25日(金)に放映された「再会~生き別れた家族に逢いたい~ – フジテレビ」、マーティーさんが横浜にある児童養護施設「聖母愛児園」を訪れるシーンが放送されました。戦後の混乱期、街の路上に置き去りにされ親がどこの誰か分からないまま保護された子どももいましたが、マーティーさんの入所記録には1947年9月8日に連れてこられた事や母の名前が記録されていたこと。捨てられたと思っていたが直接、母の手で児童養護施設に預けられていた事実を知ることができた。との内容でした。
現存している資料が、このような場面で今でも役に立っていることが分かります。
当時の聖母愛児園が受け入れていた混血児童の数人が、北海道の児童養護施設天使の園で迎え入れられています。
NHK YのY記者が根岸外国人墓地について取材に来られ、2019年12月13日(金) 「戦争の“負の歴史” 後世にどう残す けさのクローズアップ NHKニュース おはよう日本」が放映されました。ここでは、戦後、たくさんの混血孤児達を受け入れた山手の聖母愛児園にある貴重な資料の一部についての説明がありました。

戦後と聖母愛児園

1945(昭和20)年9月2日終戦、日本の降伏調印式による調印で完全に戦争は終結しました。
*日本では、1945(昭和20)年8月15日、ポツダム宣言(降伏要求の最終宣言)受託を玉音放送で天皇自らが軍人に伝えた日を終戦記念日としています。
*13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。
連合国軍占領下の日本は、第二次世界大戦における日本の敗戦からサンフランシスコ講和条約締結(1952(昭和27)年4月28日)までの約7年間、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の占領下に置かれました。
連合国軍占領下から解放された後も、混血児がおり昭和35年(1960)までいました。米国への養子縁組もこの年で終結しているようです。
台帳の記録上は、確かに赤文字十字マークがありますが、聖母愛児園沿革に記載している死亡児童数には至りません。従いまして、記録されていない死亡児童がどこに葬られたかを追跡することは不可能です。
状況的には、根岸外国人墓地は、山手町にある聖母愛児園から近く、当時の運営法人は、カトリック系で米国との関係も深く、養子縁組に関して米軍の協力もあったことから、死亡児童を米軍が引き取ったであろうとの見方も出来ます。
GHQの情報統制が関わっていた時代背景もあり、殆どの記録が歴史上から抹消されている可能性も否定できないため、追跡・確認する手段はないのでしょう。

連合国軍占領下の日本 – Wikipediaより抜粋

占領軍等の犯罪

連合軍の統治下、外地から引き揚げようとしていた民間人が、満州国や日本の占領地域に侵略してきたソ連兵や朝鮮人や中国人から、虐殺や強姦、強制拉致、監禁、強奪などの激しい被害を受け続けていた。また日本から分断されていた沖縄県だけでなく、日本本土内においてもアメリカ軍兵士による夥しい暴行、殺人、強奪、レイプ事件が日常的に発生していた。占領初期の1か月、神奈川県下だけで2900件の強姦事件が発生し、神奈川県では女学校を閉鎖するなどの処置をとって強姦の防御に努めた。1945年(昭和20年)9月2日から1952年(昭和27年)4月28日にわたる約7年間の占領期間中、本土だけでも少なくとも2,536件の占領軍による殺人と3万件以上の強姦事件が発生したとされている。
イギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦の占領地域でも、「狩り」と称して日本女性がジープ等で拉致され、女性が助けを求める声がキャンプ周辺から絶える日がなかったと記録されている。それだけでなく、その被害者の死体も見つかっておらず、返還もなされていない。
ソ連の占領下にあった北方領土内では、1947年(昭和22年)まで日本人が本土に移住することが許されず、約1万7千人の日本人が無防備のまま、ソ連兵によって殺害され、強姦や強奪の被害にさらされていた。多くの日本兵は、ポツダム宣言に反して帰還を許されず、現地でリンチにあったり虐殺され、シベリア、朝鮮半島、中国などに抑留され、強制労働を課せられた結果衰弱死する者が続出した。なお、シベリア抑留で抑留された旧日本軍兵士が強制労働にて建立された建物があり、今でも壊れずに残っておりロシア人がそれを利用している。

特殊慰安施設

アメリカ軍が日本に進駐したわずか最初の10日間に、神奈川県下で1336件の強姦事件が発生した。
沖縄戦でも目を覆うような強姦事件が繰り返されており、日本政府はそれらの被害報告を受け、アメリカ兵の強姦対策として銀座に慰安施設を設け、特殊慰安婦を集めた。
同年9月28日、今度は連合国軍医総監から東京都衛生局に対し、慰安施設の増設を指示された。
9月の同じ時期、千葉県と神奈川県でもアメリカ軍司令部から慰安所を設けるように要請を受けた。
東京都や神奈川県の慰安所では、開業前日にアメリカ兵が大挙して押し寄せ、無差別に強姦を行った。
神奈川県の慰安所では、抵抗した慰安婦をアメリカ兵が絞殺する事件も起こっている。
また中四国地方においても、イギリス連邦軍兵士向けの慰安施設を設けたほか、性病が蔓延したためイギリス軍による性病対策の講義が基地の中で開かれている。
慰安所設置によって、確かに強姦事件は減少したと考えられている。
実際に特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件だった一方、廃止後の強姦事件と婦女暴行の数は1946年前半の1日平均数で330件に増えている。
1945年(昭和20年)の12月25日、東京都の渉外部長(占領軍司令部の命令にサービスを提供する部署)だった磯村英一は、SCAPの将校から呼び出され、当時焦土と化していた「ヨシワラ」に宿舎を造営して復活させ、占領軍の兵隊のための「女性」を集めるよう命令された。東京都はすでに女性や子供をできるだけ田舎に避難させる政策をとっていたが、占領軍の命令には抗う術もなく、磯村自ら焼け跡地区で困窮生活をしていた一般女性に、食糧を支給すると約束して集める苦渋の決断を下した。
都内の焼け残った花柳界も東京をはじめとする関東地域の占領業務に当たっていたアメリカ軍専用に接収された。
レイプ記録に日英米間の差異イギリス連邦占領軍の公式報告では、軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し有罪判決を受けたとされる。
しかしながら、1946年2月から4月にかけてのイギリス連邦占領軍による公式占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない。
また、1945年8月以降のイギリス軍将兵の重大な犯罪の公式統計も存在しない。アメリカ軍のロバート・アイケルバーガー将軍は、特殊慰安施設協会に乗り込んだ数百人のアメリカ軍兵士が女性たちをレイプしたことをマッカーサー元帥と話し合ったことや、アメリカ軍兵士による日本女性への暴行を防ぐために日本人が設立した自警団を武装した戦闘車両で鎮圧し、自警団幹部らを長期間にわたって刑務所に監禁したことなどを回顧録に残しているが、占領初期のGHQによる1945年9月の「月例報告」では、「日本人はアメリカ兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。
また、GHQ外交局長W.J.シーボルドは「アメリカ兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記していた。『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーも、アメリカ軍自身が日本人慰安婦および施設を要請したことについては言及していない。
他方、特別高等警察(1945年(昭和20年)10月4日に解散させられ、記録は焼却、一部没収済み)の現存するファイルによれば、1945年8月30日から9月10日の間、占領軍による強姦事件は9、ワイセツ事件6、警官に対する事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件の記録が残っている。調達庁の資料では、7年の占領期間中にアメリカ軍兵士に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人とある。
警察資料では、アメリカ軍兵士が日本人女性を襲った事件は2万件記録されている。なおイギリス軍兵士やそれ以外の将兵による事件記録は残されていない。緘口令1945年(昭和20年)9月19日、GHQからプレスコードが発令され、占領軍の犯罪行為の報道が日本のメディアから消えた。検閲の存在そのものにも緘口令が敷かれていた。
連合国軍兵士の凶悪犯罪は「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、暗黙の了解となっていた。私生児アメリカ軍兵士による強姦などにより「GIベビー」と呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。混血児の多くは父親が誰か分からず、むろん母親からも歓迎されず、母親の親族や地域社会からも排斥されたため、線路脇などに遺棄されたり、嬰児の遺体を電車の網棚に遺棄するなどされていた。
1948年(昭和23年)には混血児に対する民間の救済施設「エリザベス・サンダースホーム」が設立された。しかし同様の施設を日本政府やアメリカ軍が作ることはなかった。同1948年(昭和23年)に優生保護法が施行され、戦前は禁止されていた人工妊娠中絶が法的に認められた。1953年(昭和28年)に厚生省が行った調査によると、国内で4972人のGIベビーが確認されている。

占領期日本における強姦 – Wikipediaより抜粋

占領の恐怖と特殊慰安施設協会

日本占領後、多くの市民は連合国軍の上陸によって日本女性が強姦されることを恐れていた。こうした懸念から、内務省警保局をはじめ各省庁および都道府県庁は、女性らに自宅待機、避難、日本人男性から離れずいるようにとの注意喚起、また米兵との接触を回避するよう勧告をしている。
米軍が最初に上陸するものと推測された神奈川県では、県警は若い女性や少女に避難勧告をしている。内務省警保局の情報にも「神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初ノ上陸地点タルベシトノ想像モアリ「敵ハ十八日ニ神奈川ニ上陸スル」ノ流言多シ」とあり、戦争関連の諸文書が一斉に焼却廃棄されるなか、行政機関当局にも相当の混乱があったことが窺える。主要港湾を擁する横浜市では、幹部職員の全員逮捕処刑を前提として、緊急措置として市民のうちの婦女子の疎開避難、女子職員の全員解雇などを決定し、これをきっかけとして丹沢方面への疎開騒ぎが広まっていた。
これに呼応し、政府は内務省警保局長名で特殊慰安施設協会(RAA)の設立について全国都道府県に打診し、東京都下の料理飲食業組合、芸子置屋同盟、待合業組合連合会など7団体代表者により、特殊慰安施設協会が急きょ設立され、協会を通し「性の防波堤」となる志願女性を募集した。これにより、各所に「進駐軍将兵慰安施設」が設置され、一例として横浜の大阪商船ビル、日本造船大丸谷寮、箱根、江ノ島の新設施設などがこれに利用された。GHQ当局は1946年1月に、「非民主的であり、女性への人権侵害である」との理由から施設の閉鎖と公娼の禁止を宣言したが、占領軍兵士を相手とする「私的」売春は継続され、兵士たちの間で性病が蔓延した。

米軍による強姦

ジョン・ダワーによれば、特殊慰安施設協会設置の効果もあり、占領軍の規模と比較すると日本政府の想定よりは強姦の発生率は低かったが、同時に性病の集団感染も引き起こした。一例としては、検査の結果1個師団の70%が梅毒、50%が淋病の陽性反応を示したため、これを主因として売春施設は閉鎖されることとなった。
公娼施設の廃止後、強姦の発生率は約8倍に増加し、ダワーの調査によるとRAAが活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領軍将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した。これに対してブルマは、「毎日40件以上の強姦が行われた可能性があるが、ほとんどの日本人は、アメリカ人は恐れていたよりも規律的だと認識していただろう」と述べている。
テレーズ・スヴォボダは、慰安施設閉鎖後に強姦の報告件数が急増した事から、兵士に対する慰安婦の提供が強姦事件抑制に一定の効果があった事を認めている。スヴォボダはまた、一例として慰安施設の営業開始前に、待ちきれなくなった数百人の米軍兵士が二棟の施設に乱入し、そこにいたすべての女性を強姦した事件についても言及している。 また、スヴォボダによると特殊慰安施設協会の廃止後少なくとも二件の大規模な集団強姦事件が発生している。

占領軍上陸直後の事件件数

マイケル・S・モラスキー(日本文学、日本語学研究者)によると、日本の警察の報告を読むかぎり、強姦やその他の重大犯罪は海軍を中心に広まっており、横須賀基地と横浜周辺における占領後最初の数週間の犯罪件数が突出しているが、日本本土全体では一般的ではなかった。
上述のように、駐留米軍兵士による拉致、強姦、殺人は日本全体には波及していないものの、警察記録と報道記録が示している通り、凶悪犯罪を犯す兵士の多くが、1945年に日本に上陸し、最初の数週間の間に記録的件数の犯罪行為をおこなっており、占領最初の10日間だけで1336件の強姦事件が報告され、その後も9月一か月間の横浜市内での強姦事件は119件にのぼっている。ダワーによれば、被害者が数人以内の場合には警察に報告すらされなかった。

日本の被害報道への検閲

ジョン・ダワーによれば、GHQ当局は1945年9月から1952年の占領終了までの間、幅広い検閲(プレスコード)を日本のメディアに対して実施しており、開始当初には左翼活動や軍国主義、超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが、占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し、占領軍による強姦などの重大犯罪や社会問題も幅広く検閲の対象となっていた。
高前英二とロバート・リケッツによると、占領軍は、1945年9月10日付連合国軍最高司令官総司令部令「占領活動に敵対的な全ての報告・統計発行物の違法化にむけた報道発表と事前検閲に係る規則」を定め、強姦などの重大犯罪に関する報道を統制していた。占領終了後、一部の日本の雑誌はアメリカの軍人が犯した強姦件数を発表している。