モード・パウラスの社会福祉事業

 アメリカ人宣教師モード・パウラス(Maud Powlas, 1889-1980)は、戦前から戦後にかけて長年にわたり日本の社会福祉、特に児童福祉の発展に尽力した人物です。彼女が熊本県で行った数多くの事業の中でも、児童養護施設「広安愛児園」は、その先駆的な理念と実践によって、日本の児童養護の歴史に大きな影響を与えました。

広安愛児園の設立と理念

1. 設立の経緯

 第二次世界大戦後の混乱期であった1948(昭和23)年4月、モード・パウラスは熊本県上益城郡益城町に「広安愛児園」を設立しました。アメリカのキリスト教児童福祉団体(CCF)の援助と、旧陸軍演習場の払い下げを受けて開設されたこの施設は、戦争で親を失った子どもたちを保護することを目的としていました。当初は「慈愛村」の名で認可され、1952(昭和27)年に「広安愛児園」と改称されました。

2. 日本の児童養護のモデルとなった「小舎制(しょうしゃせい)」

 広安愛児園の最大の特徴は、当時としては画期的な「小舎制(ホーム・システム)」を導入した点にあります。これは、大規模な施設で多くの子どもを画一的に処遇するのではなく、小さな「ホーム(家)」に職員と子どもたちが一緒に住み、家庭的な雰囲気の中で生活するという考え方です。

家庭的な環境:

子どもたちは異年齢の男女混合で構成されたグループで生活し、職員は「お母さん」的な役割を担いました。これにより、子どもたちは兄弟姉妹のような関係性を築き、家庭の温もりを体験することができました。

「神の家族」という理念:

パウラスは、一つひとつのホームが家族であると同時に、園全体が「和(輪)」となって一つの大きな「神の家族」を形成することを目指しました。これは彼女の敬虔なキリスト教信仰に基づく理念でした。

自立への促し:

単に保護するだけでなく、子どもも大人も共に畑を耕し、家畜を育てるなど、勤労を通じて自給自足の精神と感謝の心を育むことを重視しました。  この家庭的な養護を実践する小舎制は、その後の日本の児童養護施設のあり方に大きな影響を与え、モデル的な存在となりました。

モード・パウラスのその他の功績

 広安愛児園の設立以前にも、モード・パウラスは1923(大正12)年に熊本市に「慈愛園」を設立しています。慈愛園は、子どものホームだけでなく、老人ホーム、婦人ホームなども備えた総合的な社会福祉施設であり、彼女の活動の原点となりました。
 戦争により一時帰国を余儀なくされましたが、戦後すぐに再来日し、荒廃した日本の社会福祉の再建に情熱を注ぎました。彼女が設立に関わった施設は熊本県を中心に20以上にのぼると言われています。

広安愛児園の現在

 モード・パウラスが築いた広安愛児園は、現在も社会福祉法人キリスト教児童福祉会によって運営されています。創立者であるパウラスの「神の家族」という理念と、家庭的な養護を重んじる小舎制(ユニットケア)の精神は今も受け継がれ、時代のニーズに応えながら、地域小規模児童養護施設の運営など、新しい形で子どもたちの自立支援を続けています。モード・パウラスと彼女が創設した広安愛児園の歩みは、キリスト教の愛の精神に基づき、一人ひとりの子どもを大切にするという普遍的な福祉の理念を、身をもって示した貴重な実践例として高く評価されています。

創立者モード・パウラス

1.熊本県近代文化功労者(昭和60年度)モード・パウラス博士

慈愛園の創立者であり広安愛児園の創立者でもあるモード・パウラス先生は、大正9年から昭和34年まで、第二次世界大戦の日米戦時を除いて、35年間、熊本に滞在して社会福祉の発展に寄与し、23施設を創立しました。日本人にキリストを伝え、愛と福祉を高めたその事業と人物について「熊本県近代文化功労者」として顕彰されました。
1889年  北アメリカのノースカロライナ州ババーの片田舎に生まれた。 サレム教会で洗礼を受ける。 *パウラス一家は多子家庭で1男7女の大家族でモードはその5女として生まれた。
1899年  父が疫病にかかって一夜のうちに病死 *母は、9人の子供を抱えた未亡人となり苦労の多い生活が展開された。子どもたちは母親の苦労を見かねて、みんなが力を合わせて働いた。
1900年  日本伝導をしていた宣教師の「キリスト教伝道報告」を読み深い感銘を受け「私は日本に行きたい。そして、日本人の為に働きたい。」と決意する。11歳の時である。
1914年  レイノア・ライン大学卒業、テモテ高等学校の教師となる。
1917年  ニューヨーク神学校に学び、その後、コーネル伝道学校で聖書を学ぶ
1918年  日本来日、東京の日本語学校にて日本語を学ぶ。
1919年  日本福音ルーテル教会では、アメリカ宣教師ネルソン夫人の発案によって、社会事業施設の設置が計画され委員会が設けられた。
1920年  ネルソン夫人に代わってモードが創立委員長に任命される。 熊本新屋敷に家を借りて、2~3人の子供を収容して仕事を始めた。
その後、社会福祉事業が展開されていったが、当時の孤児院では、40人の子供が1棟の寮舎に収容され、午前と午後の2交代制で保母が代わる代わる子どもたちの世話をしていた。従って、そこの子どもたちは母性の愛情を知らず、常に保母が代わるために愛撫の心に飢えていた。そして、家庭生活のことは全然分からないというのが実情であった。 妹のエーネは大学で社会事業を専攻していたが、そこで、家庭主義の小舎制養護の理論を教わっていたため、姉モードに小舎制を勧めたこともあったし、実際に慈愛園の保母として姉に協力したこともあった。 自分の貧困な家庭生活の体験と、妹からもたらされた大学による理論研究が、熊本に独創的なホーム式養護を誕生させた。 これが、熊本における小舎制養護の始まりです。

  Maud Powlas    annie powlas

2.小舎制養護の始まり(慈愛園子供ホーム)

家庭的処遇を第一にするため、家屋は一戸建ての洋館とし、第一ホームから第八ホームまでを設置。ホーム間の間隔は、20~30mとした。ホームの周囲は、畑、花壇、野菜園とし、そのホームに属する耕作地が用意されて、そこに住む保母・児童指導員・児童によって花や畑が作られ、そのホームで消費され、自給自足とは言えないが、出来るだけその精神を生かすように運営されたので、全員がよく働き、児童は保母の手伝いをした。ホーム毎に台所を持ち、現品配給を利用して、児童も小学4年生位から料理当番にでて、全員が食事作りを手伝った。 モードは実家が9人兄弟であったが、1人は15歳で早死したことから、1ホーム子供8人として保母の限界とした。年齢を按配して配置し、保母をお母さんといい、そのホームに住むもので兄弟の交誼がもてるようにした。生活様式のすべてを家庭になぞらえ、家庭的精神要素を多くとりいれる運営を行ったが、これは、日本において独特のものであり、他の小舎制養護の追従を許さぬものがあった。すなわち、日本の児童養護施設のモデル的存在であった。

3.歴史を変えた名称変更

養老院→老人ホーム、母子寮→母子ホーム、孤児院→子供ホームなど、モードは、ホームと言う名称で施設を名付けた。そして、これらは後年、塩谷総一郎先生の発案に関わる老人福祉法案の施設名称をすべて、老人ホームと名付けた起源となっている。その点、日本の近代的運営のモデルと言える。

4.創立に関わった主な児童関係施設

児童養護施設:慈愛園子供ホーム・シオン園・広安愛児園・別府平和園 保育所 :ひかり幼児園・愛光幼児園・愛泉保育園・白羊保育園 盲聾唖児施設:熊本ライトハウス 幼稚園   :めぐみ幼稚園

5.モード・パウラス先生との別れ

1979年  慈愛園創立60年記念式に出席のため、来熊。熊本市長より感謝状の贈呈。 「熊本のみなさんにサヨウナラと言って下さい。」と言ってアメリカに帰られる。 1980年  ノースカロライナの故郷で召天。享年91歳でありました。

6.手記の日本語訳

モード・パウラス先生が米国で出版された手記の日本語訳が「愛と福祉のはざまに」です。

目的の一致のために

この表題は、モード・パウラス著「愛と福祉のはざまに」の151ページにあります。 慈愛園子供ホーム運営の初期の頃、10名の常勤職員と2名の非常勤職員の時代があり個性的で識見を持った働き人のグループであった。個性的な人の集まりは、時には、不調和を招き、その時、パウラス先生が考えたことは! 「子供たちの育て方、老人の養護、一般社会的向上の仮説のなかから、目的の一致を引き出すのが、施設長としてのわたしの義務であった。」 当時の職員たちは、各自、自分こそ慈愛園はいかに運営されるべきかを、他の人よりもよく知っているという確信を持っていた。事実はだれも知ってはいなかった。 また、4名の職員は、10歳から16歳年長であり、彼女たちの意見によれば、自分の子供の子育てをしたことのある自分が、子育てをしたことのないパウラス先生より賢いとの見解を示していた。しかし、パウラス先生の信念は、 「わたしたちは、進歩した知識の社会事業のモデルたるべく任命されたものである。旧いやり方はより科学的、より衛生的な方法にゆずらなければならない。」 でありました。運営的にも、普通一般の風習と、モデルとして模範になる施設を確立する試行錯誤の中間の線を行くのは容易ではなかった。時には、 「あなた方のやり方は何ですか。わたしたちは人々の憐れみはいりません。日本人は、境遇の如何に関わらず、人間は人間であることを学ばなければなりません。」と気性が燃え上がることもあった。 施設長としてのパウラス先生の元に16歳年長の職員がいた。業務的には有能ではあったが、リーダーには任命しなかった。 「専門的訓練の欠如と共に、他の職員と協調できないためであった。」 パウラス先生は、職員を採用する条件として、「わたしたちは責任を遂行するために、十分な意志力を持った人がほしい」との見解を持っていた。 *モード・パウラス先生は、熊本での社会事業の展開や慈愛園運営において、戦前戦後と方針等をバージョンアップしていることが「愛と福祉のはざまに」の中で記されています。勿論、そこには、後に千葉県にて献身的な働きをされた妹のエーネ・パウラス先生の影響も多大にあったことは言うまでもありません。 当時と現在では、時代背景が異なりますが、モード・パウラス先生が、いよいよ日本を去る時、潮谷總一郎先生を始めとした当時の若い人の手に事業をゆだねられて行かれました。それは、同時に今働いている職員の手にもゆだねられていると言うことになります。 創始者の意志を引き継ぎ「目的の一致のために」チームワークを築き上げ、子どもたちの幸せのために事業運営を展開していきましょう。 「モードは、自分の力で、社会事業施設をたくさんつくって、これを経営しているとは少しも思っていません。これは神様のお仕事であると信じています。モードは、神様の手となり足となって働いただけです。だから大きい仕事をしても、少しも誇りませんでした。」

創立者モード・パウラス

「くるみの実のなるころ」潮谷總一郎著より

2.幼児の躾について「愛と福祉のはざま」171ページ~ ①恐怖心をおこさせることが矯正の鞭 ②もう一つの鋭い躾の武器は、「みんなに笑われるよ」 ③最も残酷で傷つけるやり方は、捨ててしまうというおどしである。 この三点は、モード・パウラス先生が最も嫌った方法です。 日々の子どもたちへの対応の中で、恐怖心を起こさせたり、「出て行きなさい」と叱責したり、「そんなことでは、みんなに笑われたり、馬鹿にされたりするよ。」などの態度や言葉がけをしていないでしょうか。勿論、「様子を見ましょう。」と放任したり、無関心であったりは、パウラス先生の愛の実践から大きく遠ざかります。 「初心忘るべからず」の言葉通り、創始者パウラス先生の愛の実践から溢れ出た教訓を振り返りましょう。 その名前は「ミス、モード・パウラス」です。

その名前は「ミス、モード・パウラス」です。

モード・パウラスは、1889年(明治22年)北アメリカはノースカロライナ州バーバーで、パウラス家の1男8女の兄弟の5番目の女の子として生まれました。少しちじれた赤味がかった髪の毛をした可愛い赤ちゃんでした。パウラス一家は、かなりの広さの農場や山林を持ち、農業を営み作物や家畜を養って生活をしていました。その生活は決して裕福とはいえませんでしたが、平和で幸せな家庭でした。 両親は子供の教育に大変熱心で、又敬虔なルーテル教会の信徒でした。そんな家庭の子供としてモードは、生後2ヶ月も経たないある春の日に、カロライナ州サウスベリーのルーテルサレム教会で洗礼を受けました。 然しそんな幸せな家庭に、ある日突然不幸が訪れました。それは大黒柱だった父親の病死で、モードが10歳の時でした。母親のマーガレットは9人の子供を抱え未亡人になってしまいました。たちまち母親の肩には農場の経営と子供の教育という重荷がのしかかって来ました。 母のマーガレットは朝早くから夕方まで農場の仕事に励み、子供達の教育にも努力しました。子供達も母親を助けて家事の手伝いから農場のお仕事、家畜の世話まで、学校の傍ら一生懸命働いたのです。その頃長女のローザは18歳でしたが、大學を出ると家計を助ける為、近くの孤児院の保母さんとして働いていました。このことがモードが後年日本に来て孤児たちを助けるため社会奉仕をする遠因のなったのです。 モードは学校でも勉強に励み、家でも母親を助け、農作業や家畜のお世話に精を出しました。彼女が11歳になったそんなある日、モードの生涯を決めた忘れられない出来事にめぐり合いました。 それは、彼女が日頃足を踏み入れたことの無い小屋の屋根裏に入って、あるものに出会ったことでした。それは亡くなった熱心なクリスチャンであつた父親が残した「ルーテル教団の古い伝道新聞の束」でした。その新聞には、教団の宣教師達の外国での活動の報告がたくさん書かれていました。 その記事をモードはむさぼるように読み始めました。特にその中で彼女の心を捉えたのは、日本の佐賀県で宣教に従事していたリッパ―ドと言う婦人宣教師の報告の記事で、母親の病の回復を毎日神棚に祈る太郎という少年のお話でした。 モードにとっては、心を持ってない木の偶像に祈ってるとしか思えませんでした。この記事を読んで可哀想な少年にモードは涙を流しました。そしてモードは「私も宣教師になって日本に行きイエス様を知らない日本の子供達に、子供を愛し死んで下さったイエス様の事を教えてあげよう」と思いました。 彼女にとってこの事は神様がモードに「キリストの使徒となって、日本に行くように。」と言われている様に感じられました。そして「私は日本に行き、自分の生涯を捧げて、子供達にイエス様の事を教えて上げなくてはいけない。」と決心したのでした。彼女はその場で長い時間、自分の望みが叶えられるように、と神様に祈りました。 モードは高校・大学生活のなかでも、常に「神様のお召しによって日本に行く」という思いに導かれ、勉強に励みました。大学を出ると教会学校の先生をしたり、高校の先生をしたりして、その時を待ちましたが一向に日本に行けるような機会は来ませんでした。 矢張りそのための勉強をしなくてはいけない、とニューヨークの神学校に入り更にはコールネル大學の伝道学校に学びました。 1918年大正7年、やっと念願かなって、サウスベリーの聖ヨハネ教会に於いて、伝導局の任命を受け日本に行く事が認められました。屋根裏部屋で新聞を読み、「宣教師になって日本に行く事」を決心してから18年もの歳月が流れていました。 その年の夏いよいよ日本に旅立つ日が訪れました。サンフランシスコから大きな船に乗り日本に向けて出発しました。生まれてはじめての長い長い船旅でした。途中で嵐にあったり船酔いに苦しんだりしましたが、9月1日、海の上から見た美しい富士山に感動しながら横浜の港に日本での第一歩を印しました。 日本語学校での1年間の日本語の勉強を終え、宣教師として佐賀県に派遣されました。丁度その頃、ルーテル教団では日本に社会事業施設を造る計画があり、その施設が熊本に作られることになり、モードにその仕事を創立委員長としてやるように、と要請されました。 宣教師としての勉強は充分にしたつもりでしたが、社会事業施設の設立や経営は初めてのことであり、モードはどうしてよいかわからず戸惑いましたが、日本で社会事業をしている宣教師や日本人の社会事業家などを訪ねて、その教えを受けるなどの努力を続けました。 その頃の日本は、経済の不況がはなはだしく生活に困る人々が多く、苦しい生活の故に自分の子供を捨てたり、お金のために娘を売ったりするような人身売買が当たり前の様に行われているよな時代でした。 モードは家を一軒借りたりして、身寄りの無い子供達やかわいそうな娘達を保護する仕事を始めました。此れがモードの日本における神の愛を身を持って実践する第1歩の仕事になりました。

モードのこの働きを聞き、助けを求めてモードのもとへ逃げてくる娘達も大勢いました。また熊本市の中心部を流れている白川の幾つもの橋の下には浮浪者が住み着いていて、筵で作った小屋の中で生活していましたが、モードはそれらの人々を毎日の様に訪ねては、衣類や食べ物を与えたり、病人には薬を飲ませてあげたり、そこに住んでいる子供達を引き取って宣教師館につれて帰ったりもしていました。そのため借りた家も宣教師館もたちまち一杯になってしまいました。 その頃、熊本に予定されていた社会施設も具体化し、アメリカのルーテル婦人団体などからの多額の寄付金を基にして、熊本の水前寺公園近くの健軍村(現在は市内健軍町)に6000坪の広い土地を購入し、老人ホーム、子供ホーム、婦人ホームなど建設すべく工事が進められていました。 1923年大正12年にはこれらの施設が完成し、開園式が行われる事になりました。開園式にはアメリカと日本のルーテル関係者をはじめ地元の熊本県の県知事、熊本市長など多くの人たちが参列しました。そして施設の名前が「慈愛園」と命名され、輝かしい第一歩を踏み出しました。モードが日本に第1歩を記してから5年目でした。