聖母会とこうのとりのゆりかご

聖母会(せいぼかい)は日本の社会福祉法人である。マリアの宣教者フランシスコ修道会が1898年(明治31年)熊本県熊本市に創立した。ハンセン病救済事業「待労院」から始まり、内務大臣より「社団法人マリア奉仕会」として認可され、1952年(昭和27年)に社会福祉法人聖母会となる。
以後、全国に医療施設、児童養護施設、老人福祉施設、診療所、保育園と職員1000名を有する法人として運営されている。新宿区中落合の聖母病院、横浜市戸塚区の聖母の園、熊本市の慈恵病院「こうのとりのゆりかご」などが有名である。法人本部を東京都新宿区中落合に置く。
*慈恵病院は、1978年4月に、医療法人聖粒会に譲渡されました。
こうのとりのゆりかご慈恵病院

聖母愛児園の譲渡に至る経緯

1.歴史概略
平成12年(2000)に、社会福祉法人 聖母会より、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会へ、児童養護施設 聖母愛児園の土地及び運営を移管したいとの申し出があり、その準備のため、当時、キリスト教児童福祉会理事長の森 勉が、聖母愛児園施設長に就任することとなりました。
聖母会の母体、マリアの宣教者フランシスコ修道会の日本で最初の拠点が熊本県であり、ライ患者の施設である待労院や児童養護施設 琵琶崎聖母愛児園(1978年閉鎖)等を運営。横浜では、昭和21年(1946)に戦災孤児や混血児のためのベビーホームを開設、昭和25年(1950)に、乳児院を増員し名称を聖母愛児園とし児童養護施設としても認可を受け現在に至っています。修道女による運営のため、女子児童の措置が中心でありました。
上述した経緯の中、時代のニーズは、女子児童だけではなく、男子児童の措置受け入れの要請があり、また、施設老朽化整備等、様々な要因が重なり、社会福祉法人 聖母会は、歴史的にも親交のあった、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会に、土地及び運営を移管する決定に至っています。
歴史的親交を決定づける事件が龍田寮児童通学拒否事件(黒髪事件)です。

2.聖母愛児園の譲渡に伴う基本財産処分への概略
平成12年(2000) 社会福祉法人 聖母会の風間理事長が、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会へ来訪、聖母愛児園の継承について打診、検討の結果、適切な継承相手であると判断し準備を進める。
平成12年(2000) 社会福祉法人キリスト教児童福祉会理事会にて、聖母愛児園の譲渡について説明、理事長(森勉)が聖母愛児園施設長に就任する件についての説明、共に承認を得る。
平成13年(2001) キリスト教児童福祉会理事長の森 勉が、理事長を降板し、聖母愛児園施設長に就任する。
*聖母愛児園の土地が、聖母会運営の他施設建築時の担保になっているため、担保期限が終了するまで保留状態となる。
平成15年(2003) 社会福祉法人聖母会理事会にて聖母愛児園の譲渡に伴う基本財産処分について説明し承認を得る
平成17年(2005) 1月 社会福祉法人聖母会理事会にて聖母愛児園の譲渡に伴う基本財産処分について承認可決
3月 贈与契約書締結 キリスト教児童福祉会 趣意書を提出
平成17年(2005) 3月 社会福祉法人キリスト教児童福祉会理事会にて、聖母愛児園の譲渡に伴った、贈与契約書締結、趣意書提出について異議無く承認

3.聖母会が聖母愛児園を譲渡する理由(理事会議事録より)
・聖母会の児童養護施設園長は後援団体の修道会会員が担ってきたが会員の減少、高齢化に伴い幼児・学童の教育に携わる人材不足となり、北広島の天使の園と横浜の聖母愛児園の2カ所も児童養護施設の経営管理を継続することは不可能であること。
・大都市圏では児童養護施設への入所へのニーズが高く横浜市の要請する男子の受け入れその他、時代のニーズに応えることが不可能であること。
・種々の施設を経営する聖母会としては家庭崩壊・虐待児等が増加している今日、将来のある児童・学童教育に責任をもってあたる専門家がいないこと。

4.社会福祉法人キリスト教児童福祉会を継承先とする理由(理事会議事録より)
・永年、児童養護施設、特に小舎制養護を目指し児童の教育に実績のある「社会福祉法人キリスト教児童福祉会」が継承する意向のあること。
・長年、専門に児童養護施設として救済・教育・施設運営に力を入れて運営してきた社会福祉法人であり、聖母会が土地・建物を無償譲渡することによりキリスト教の精神を維持して聖母愛児園を継承する熱意があること。
・希望退職者を除く職員全員を継承する意向があること。

5.譲渡条件
・希望退職者を除く職員全員を継承する。
・土地・建物は現状のまま無償譲渡し、事業を継承する。
・土地・建物運用財産の明細は省略します
森勉施設長と新垣元施設長マリア像移転

龍田寮児童通学拒否事件(黒髪事件)

龍田寮は、恵楓園に入所中の父母を持つ子どもたちが生活している同園附設の児童福祉施設でした。健康であるにもかかわらず、「未感染児童」といわれ、将来感染するかもしれないという誤解と偏見を受けていました。他の療養所では、問題を抱えながらもすでに小中学校への本学通学は実現していて、残ったのは恵楓園だけという状況で事件は起きました。
龍田寮の敷地内には黒髪小学校の分校があり、昭和28年(1948)12月、恵楓園の宮崎園長が法務局に、子ども達を普通の学校へ通学させないのは差別だと申し立て、新聞で取り上げられると、にわかに黒髪小学校のPTAが騒ぎ始めました。
入学式の日から反対派が同盟休校を強行しました。反対派は,「黒髪会」という住民組織を結成し、龍田寮の廃止を要求するようになってきました。寮の前には反対派の車が来て、拡声器で「でていけ」と怒鳴りました。
昭和30年(1950)には、熊本商大の高橋学長が間に入り、新一年生四人を学長の官舎に引き取り、そこから本校に通わせることを提案し、最終的にはこれが受け入れられました。しかし、龍田寮は昭和32年(1952)いっぱいで閉鎖と決定されました。子どもたちは、故潮谷総一郎・慈愛園園長のとりまとめで、県内の児童養護施設に極秘のうちに分散収容されました。しかし、「できるだけ患者の出身地で処理させる」との恵楓園の方針で、親せきに引き取られた子の方が多かったといいます。
この時、故潮谷総一郎園長の呼びかけに、真っ先に反応したのが広安愛児園の志垣園長であり、聖母会でした。
龍田寮事件龍田寮事件

土地売却計画断念

1.歴史概略
平成13年に、社会福祉法人 聖母会より、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会へ、児童養護施設 聖母愛児園の土地及び運営を移管したいとの申し出がある。
聖母会の母体、マリアの宣教者フランシスコ修道会の日本で最初の拠点が熊本県であり、ライ患者の施設である待労院や児童養護施設 琵琶崎聖母愛児園(1978年閉鎖)等を運営。 横浜では、1946年に戦災孤児や混血児のためのベビーホームを開設、1951年に、乳児院を新設し名称を聖母愛児園とする。1955年に、児童養護施設として認可を受け現在に至っている。修道女による運営のため、女子児童の措置が中心であった。
上述した経緯の中、時代のニーズは、女子児童だけではなく、男子児童の措置受け入れの要請があり、また、施設老朽化整備等、様々な要因が重なり、社会福祉法人 聖母会は、歴史的にも親交のあった、社会福祉法人 キリスト教児童福祉会に、土地及び運営を移管する決定に至っている。
2.土地売却計画
平成13年に聖母会より移管の申し出があった後、最初に取り組んだのは、土地の売却であった。売却益により新たな土地で建物を新設する計画である。新たな土地の候補地として挙がったのは、寿町1丁目(裁判所裏手)の国有地であった、児童家庭課係長も同行の上、交渉にあたったが、財務局よる国有地払い下げ条件の中に、購入者は、20年間、名義を変更してはならない。があり、当時、移管前で、まだ、聖母会であったため、購入を断念せざるを得ない状況であった。
さて、一般企業等は、景観条例の遵守や道路狭小による交通アクセスの不便さ等々、様々な要因が絡み、候補者は現れない状況であり、隣接した、雙葉学園や近隣の中華学校との交渉を行ったが、金額的に折り合いがつかず交渉は、不成立に終わった。
児童家庭課の協力を得ながらの売却と購入のプロジェクトであったが、これ以上の進展は、望めず、施設老朽化整備のための建て替えは、現在の山手町68番地にて行い、工事中は、仮園舎にて子どもたちの養護を守る方向へと計画を変更する。