日本におけるモード・パウラスの社会福祉事業への貢献
はじめに
モード・パウラス(Maud Alena Powlas, 1889-1980)は、大正時代から昭和中期にかけて日本の社会福祉、特に熊本県におけるその発展に多大な貢献を果たした日本福音ルーテル教会の宣教師である。彼女は生涯を通じて23もの福祉施設を創設し、その活動は単なる慈善事業に留まらず、日本の福祉制度や理念に画期的な影響を与えた。
モード・パウラスの生涯と日本での宣教活動の始まり
生い立ちと日本への志
モード・パウラスは1889年2月15日、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ババーの大家族(1男8女の5女)に生まれた 。彼女が10歳の時、父親が疫病で病死し、母親は9人の子供を抱える未亡人となり、一家は苦労の多い生活を送ったとされる 。この幼少期の貧困と苦難の経験は、彼女が幼い頃から「助け合う」ことの重要性を深く体感する機会となった。
11歳の時、日本で伝道していた宣教師の「キリスト教伝道報告」を読み、「私は日本に行きたい。そして、日本人の為に働きたい」と強く決意した 。この幼少期の決意は、彼女の生涯を決定づける出来事となった。彼女自身の苦難の経験が、後に社会福祉事業において「愛と福祉」の理念を形成する根底となり、困窮する人々、特に子供たちのために尽くすという深い人間的共感と奉仕の精神に繋がったと考えられる。この背景は、後の小舎制養護における「家庭的な環境」の重視にも影響を与えた可能性が高い。その後、1914年にレイノア・ライン大学を卒業し、テモテ高等学校の教師を務めた後、ニューヨーク神学校、コーネル伝道学校で学びを深めた 。
来日と初期の日本語学習・社会事業計画
1918年(大正7年)、29歳になったモード・パウラスは、念願であった宣教師として日本に来日し、東京の日本語学校で日本語を学んだ 。彼女の日本での社会事業への参画は、単独の行動ではなく、日本福音ルーテル教会の組織的な計画の一環として始まった。
1919年(大正8年)、日本福音ルーテル教会宣教師会は当時の日本の社会状況を憂慮し、社会事業を開始することを教会総会に提案し、その提案は承認された 。同年、社会事業施設の設置計画が進められ、委員会が設けられた。そして1920年には、モード・パウラスが創立委員長に任命された 。彼女がこの大規模な社会事業の中心的役割を担う人物として選ばれたことは、その能力とリーダーシップが当時から高く評価されていたことを示している。また、北米一致ルーテル教会婦人会の寄付を得て土地を購入したことは 、彼女の活動が個人の情熱だけでなく、国内外のキリスト教組織からの強力な支援と信頼を得ていたことを物語っている。
慈愛園の創立と初期の社会福祉事業
慈愛園設立の経緯と目的
日本での社会事業計画が具体化する中で、モード・パウラスは1922年、アメリカの教会の婦人会からの多額の寄付金を元手に、熊本市の水前寺近くに約2万平方メートルの土地を購入した 。そして1923年(大正12年)、これらの施設が「慈愛園」として正式にスタートした 。
慈愛園は、当初から子供ホーム、老人ホーム、婦人ホームを含む複合施設として設計された 。これは、当時の日本社会に存在した多様な困窮者、すなわち孤児、貧困な高齢者、困窮した女性といったそれぞれのニーズに対応するためであった。単一の課題解決に留まらず、一つの「園」の中でこれらの異なる世代や状況の人々が共存する構造は、相互扶助やコミュニティ形成を促す意図があったことを示唆しており、現代の地域包括ケアシステムや多世代交流の理念に通じる先見性を持っていたと言える。単に人々を収容するだけでなく、「家庭的な環境」を提供することを目的とした点は、後の小舎制養護の思想の萌芽と捉えることができる。
子供ホーム、老人ホーム、婦人ホームの開設
慈愛園が提供した支援は、当時の社会で特に必要とされていた層を対象としていた。特筆すべきは、彼女が従来の「養老院」や「孤児院」といった収容施設的な名称ではなく、「老人ホーム」「子供ホーム」「婦人ホーム」というように「ホーム」という名称を用いたことである 。
この名称変更は、単なる言葉の変更以上の深い意味を持っていた。従来の「院」や「寮」といった呼称が持つ隔離や収容のイメージを払拭し、「ホーム」という呼称が持つ家庭、安らぎ、生活の場というイメージへの転換を図ったのである。これは、利用者の尊厳を重視し、より人間らしい生活の場を提供しようとするモード・パウラスの福祉理念の具現化であった。この革新的なアプローチは、日本の福祉施設の標準的な呼び方となり、福祉のイメージをより温かいものに変える画期的な影響を与えた 。実際に、後年、塩谷総一郎の発案に関わる老人福祉法案の施設名称をすべて老人ホームと名付けた起源となり 、彼女の思想が後の法制度にまで波及したことを示唆している。
戦時中の帰国と戦後の再建・拡大
第二次世界大戦による一時帰国
モード・パウラスの日本での社会福祉活動は、第二次世界大戦によって一時的な中断を余儀なくされた。1941年(昭和16年)、日米間の不穏な空気が高まる中、彼女はアメリカへ一時帰国した 。この戦争による強制的な中断は、彼女の活動にとって大きな試練であった。しかし、この中断期間中も、彼女の日本への深い愛着と使命感は失われることはなかった。
戦後の再来日と荒廃からの復興支援
戦後、モード・パウラスは再び日本に戻ることを決意した。1946年9月、彼女が以前育てた娘から日本の荒廃した現状を伝える手紙が届いたことが、その再来日の大きなきっかけとなった 。そして1947年1月、57歳になった彼女は日本に再来日し、直ちに福祉活動を再開した 。
終戦後の熊本市は荒廃し、多くの子供たちが心に傷を負っていた。この窮状を目の当たりにした彼女は、早急に収容施設を増設する必要性を強く認識し、活動を加速させた 。彼女の行動力は目覚ましく、1947年には旧陸軍演習場用地の払い下げ申請が受理され、米国リッチモンド市に本部を置くC・C・F(Christian Childrens Fund.Inc)から資金を得て、広大な草原の開墾と収容ホームの建設に着手した 。そして1948年4月には、旧陸軍の倉庫1棟を移築して収容ホーム第1号を建て、開園にこぎ着けた 。この迅速な対応と、旧陸軍用地の活用や海外からの資金調達といった実務的な手腕は、彼女が単なる理念家ではなく、現実的な課題解決能力に優れた実践者であったことを示している。戦後には、熊本市、荒尾市、別府で幼児園、児童養護施設、保育園、母子寮を新たに創設し、その活動範囲を広げた 。
社会福祉法人慈愛園の組織化と広安愛児園の創立
戦後の福祉需要の増大に対応するため、モード・パウラスは個人の篤志による活動から、より持続可能で安定的な社会福祉事業へと発展させる道を選んだ。彼女は社会福祉法人慈愛園を組織し、その初代理事長に就任した 。この法人化は、安定した運営と事業拡大を実現するための組織的基盤の確立を意味し、日本の福祉事業の近代化に貢献した。
さらに、慈愛村から基督教児童福祉会広安愛児園を創立し、その理事長も務めた 。1952年6月には「慈愛村」が「広安愛児園」に改名された 。これらの組織化の動きは、彼女が慈善活動の重要性を認識しつつも、より広範な影響と持続性を追求するために、組織的なアプローチを採用したことを明確に示している。初代理事長としての役割は、そのリーダーシップと経営手腕を証明するものであった。
日本社会福祉への画期的な貢献と影響
小舎制養護の導入とその普及
従来の施設養護の問題点と小舎制の理念
モード・パウラスは、当時の孤児院が抱えていた深刻な問題、すなわち子供たちが母性の愛情を知らず、家庭生活が分からないという点を深く憂慮していた 。彼女は、自身の幼少期の貧困な家庭生活の体験から「家庭」の重要性を痛感しており、既存の孤児院のあり方に疑問を抱いていた。
この問題意識に対し、彼女は家庭主義に基づく「小舎制養護」を導入した 。これは、大規模な施設ではなく、小規模で家庭的な環境を提供することで、子どもたちがより安定した環境で育つことを目的とした画期的な考え方であった 。彼女のこの独創的なホーム式養護は、自身の原体験に加え、社会事業を専攻していた妹エーネ・パウラス宣教師からもたらされた大学による理論研究を基に誕生した 。このように、彼女の小舎制養護の導入は、単なる経験則だけでなく、深い人間的共感と学術的な知見の融合によって生まれたものであり、日本の児童福祉にパラダイムシフトをもたらした教育者・改革者としての側面を強く示している。
日本の児童福祉施設へのモデル的影響
モード・パウラスが導入した小舎制養護は、日本におけるその始まりであり、日本の児童養護施設のモデル的存在となった 。その有効性と人間中心の思想は高く評価され、現在も多くの施設で採用されている 。彼女の著書「愛と福祉のはざまに」にも、その思想が詳細に記されており、後世にその理念が伝えられている 。その影響は現在まで続く日本の児童福祉の基盤を形成したと言える。
福祉施設名称の近代化と「ホーム」概念の定着
モード・パウラスの貢献は、施設の運営方法に留まらず、福祉施設の「名称」にまで及んだ。彼女は、従来の「養老院」を「老人ホーム」、「母子寮」を「母子ホーム」、「孤児院」を「子供ホーム」と、すべて「ホーム」という名称で名付けた 。
この名称変更は、単なる呼称の変更に留まらず、社会が福祉施設をどう捉えるかというイメージそのものを変える戦略的な意味合いを持っていた。従来の「院」や「寮」が持つ収容や隔離のニュアンスに対し、「ホーム」という言葉は、家庭、温かさ、そして生活の場というポジティブなイメージを付与したのである。これは、利用者の尊厳を重視し、社会全体の福祉に対する認識を向上させることを目指した彼女の配慮であった。この言葉の選択は、後年、塩谷総一郎先生の発案に関わる老人福祉法案の施設名称をすべて老人ホームと名付けた起源となり 、日本の福祉施設の標準的な呼び方として定着した 。彼女の思想が後の法制度の標準化にまで影響を与えた点は、その貢献の広範さを示している。
多岐にわたる福祉施設の創設と地域貢献
モード・パウラスは、大正9年(1920年)から昭和34年(1959年)までの35年間(第二次世界大戦の日米戦時を除く)、熊本に滞在し、社会福祉の発展に貢献した 。この期間に、彼女は実に23もの福祉施設を創立している 。
創立に関わった主な児童関係施設は以下の通りである 。戦後には、熊本市、荒尾市、別府で幼児園、児童養護施設、保育園、母子寮を創設した 。
モード・パウラスが創立に関わった主な施設一覧
施設の種類 施設名 備考
児童養護施設 慈愛園子供ホーム 慈愛園の一部として創立
児童養護施設 シオン園
児童養護施設 広安愛児園
旧慈愛村、基督教児童福祉会広安愛児園として創立
児童養護施設 別府平和園 別府にて創設
保育所 ひかり幼児園
保育所 愛光幼児園
保育所 愛泉保育園
保育所 白羊保育園
盲聾唖児施設 熊本ライトハウス
幼稚園 めぐみ幼稚園
その他 慈愛園老人ホーム 慈愛園の一部として創立
その他 慈愛園婦人ホーム 慈愛園の一部として創立
その他 母子寮 戦後創設
この23という施設の数と、その多様性(子供、高齢者、女性、障害者)は、彼女が特定の層に限定せず、地域全体の多様な福祉ニーズに応えようとした包括的なアプローチを示している。熊本という特定地域での長期間の活動と多数の施設設立、そして児童、高齢者、女性、障害者といった多岐にわたる対象への支援は、地域社会の複合的な課題への対応であった。これは、彼女が単なる施設建設者ではなく、地域全体の福祉インフラを構築しようとする「地域福祉のパイオニア」であったことを示唆しており、後の地域福祉の概念の基礎を築いたと言える。
「愛と福祉のはざまに」に込められた理念の継承
モード・パウラスの活動の根底には、「愛を受ける立場から、他者に愛を分け与える人になる」という深い哲学があった 。この理念は、キリスト教宣教師としての彼女の背景から生まれたものであり、単なる慈善を超え、利用者の人間形成と社会貢献を促すという、より高次の教育的・精神的側面を持っていた。
この考え方は、現在も多くの福祉施設で実践され続けている 。その普遍性は、宗派を超えて継承されている点にも表れている。例えば、戦後創立した基督教児童福祉会広安愛児園がキリスト教児童福祉会に名称変更した後、カトリック系の聖母会からルーテル系のキリスト教児童福祉会に児童養護施設聖母愛児園の財産(経営)移管が行われたことで、モード・パウラスの理念を受け継ぐ事業所がさらに増えた 。
1978年には、米国で出版された彼女の手記の日本語訳「愛と福祉のはざま」が著され 、その思想が広く知られることとなった。彼女の活動は単に物質的な支援に留まらず、利用者の内面的な成長と自立、さらには社会全体への貢献を促すという、より高次の目標を持っていたのである。
評価と遺産
功績に対する表彰歴と栄誉
モード・パウラスは、その多大な功績により、数々の表彰と栄誉を受けている 。これらの表彰は、彼女の貢献が単一の分野に限定されず、地域社会、国家、さらには国際的なレベルで高く評価されていたことを示している。
モード・パウラスの主な表彰歴
受賞年(和暦・西暦) 賞の名称 授与機関/主体 備考
昭和29年(1954年) 熊日社会賞 熊本日日新聞社
昭和32年(1957年) 藍綬褒章 日本国 社会福祉分野での功績に対して
昭和34年(1959年) 勲四等瑞宝章 日本国
社会福祉分野での功績に対して
昭和35年(1960年) 日米修交通商百年記念米人功労者表彰 日本国/米国
日米間の友好関係への貢献も評価
昭和54年(1979年) 感謝状 熊本市長(星子敏雄)
慈愛園創立60周年記念式典にて
昭和60年(1985年) 熊本県近代文化功労賞 熊本県
その他 全国社会福祉協議会長表彰 全国社会福祉協議会
その他 熊本県知事表彰 熊本県
その他 厚生大臣表彰(2回) 厚生省
地方(熊日社会賞、熊本市長感謝状、熊本県知事表彰、熊本県近代文化功労賞)から国(藍綬褒章、勲四等瑞宝章、厚生大臣表彰)まで多岐にわたる受賞歴、さらには日米修交通商百年記念表彰という国際的な評価は、彼女の活動が日本の社会福祉の発展において極めて重要な役割を果たしただけでなく、日米間の文化交流や友好関係にも貢献したことを示している。彼女の功績は、単なる福祉事業の枠を超え、歴史的・国際的な文脈で評価されるべきものである。
慈愛園モード・パウラス記念資料館の登録有形文化財化
モード・パウラスの功績を称え、慈愛園モード・パウラス記念資料館(旧宣教師館)が登録有形文化財(建造物)として登録されている 。これは、彼女の精神的・社会的な遺産が、具体的な建築物という物理的な形で後世に伝えられていることを意味する。彼女の活動の拠点であった旧宣教師館が歴史的・文化的価値を認められ文化財として登録されたことは、過去の偉業を現代に伝えるシンボルとなっている。これは、彼女の貢献が単なる歴史上の出来事ではなく、現代にも息づく生きた遺産であることを示しており、その理念が未来へと継承されるための重要な拠点となっている。
現代の社会福祉への継続的な影響
モード・パウラスが導入した小舎制養護の考え方は、現在も多くの日本の児童福祉施設で採用されており 、その有効性が証明され続けている。また、「ホーム」という名称の定着も、福祉施設のイメージを温かいものに変え、日本の福祉の標準的な呼び方として深く根付いている 。
さらに、彼女の「愛を受ける立場から、他者に愛を分け与える人になる」という理念は、多くの福祉施設で実践され続けている 。彼女の思想や実践が、時代を超えて現代の社会福祉の現場に影響を与え続けていることは、その普遍性と有効性を示している。これらの遺産は、単なる過去の遺物ではなく、現在の福祉現場における実践の基盤となっており、モード・パウラスの貢献が歴史的な記録に留まらず、現代日本の社会福祉のあり方を形作る上で不可欠な要素であることを示している。彼女は、単に施設を創っただけでなく、日本の社会福祉の「魂」を育んだと言える。
結論
モード・パウラスは、1918年の来日から1959年の宣教師勇退までの長きにわたり、日本、特に熊本県において社会福祉の発展に決定的な役割を果たした。彼女の貢献は、慈愛園をはじめとする23もの多岐にわたる福祉施設の創設という量的側面だけでなく、小舎制養護の導入や福祉施設名称の近代化といった質的な側面においても画期的であった。これらの革新は、日本の児童福祉のあり方や福祉施設のイメージを根本から変え、現代にも通じるモデルを確立した。
また、戦時中の困難を乗り越え再来日し、荒廃した日本で復興支援に尽力したその不屈の精神と、国内外の支援を得て事業を組織化した手腕は、特筆に値する。彼女の活動は、単なる慈善事業ではなく、キリスト教的愛に基づいた深い人間理解と、自身の苦難の経験、そして理論に裏打ちされた実践が融合したものであった。
モード・パウラスの「愛を受ける立場から、他者に愛を分け与える人になる」という理念は、現代の社会福祉においても普遍的な価値を持ち続けている。彼女の遺産は、登録有形文化財となった記念資料館として物理的に存在し、また、小舎制養護や「ホーム」概念の定着、そしてその哲学が継承されている多くの福祉施設において、生きた形で息づいている。彼女の生涯と功績は、社会福祉が単なる制度やサービスに留まらず、人間性、尊厳、そして愛に基づいたものであるべきだという、現代社会にも通じる重要な示唆を与えている。